小田草神社の境内には、一の谷稲荷神社が祀られている。
一の谷稲荷神社本殿は、覆屋に覆われている。
覆屋は拝殿と一体化している。全体が朱色に塗られ、いかにもお稲荷さんらしい社殿だ。
この覆屋の中に、朱色と白に彩色された本殿がある。
この本殿が建てられた年代は分からないが、桃山時代のものではないかと感じた。彩色の絢爛さと木材の古さからそう感じたのだ。
一の谷稲荷神社の右側に、簡素な木製の鳥居がある。そこから小山田城跡への登山道が始まる。
鳥居の脇には、城跡の案内板がある。
簡単な城跡の周辺図がある。的場、馬場、殿丸といった周辺の地名も、ここにかつて城があったことを示している。
鳥居を潜って舗装路を真っすぐ歩くと、城跡への登り口が見えてくる。
小田草城跡の登山路は、よく整備されていて、とても歩きやすい。頂上まで階段が設置されていて、等間隔で街灯が付けられている。
葛下城跡に続いて、この日二つ目の城跡への登山だったが、苦労せずに登ることが出来た。
前回の記事で、貞治七年(1364年)の小田草城主斎藤二郎の銘のある梵鐘を紹介したが、その後200年以上に渡り小田草城の城主は斎藤氏だった。
天文十三年(1544年)に、出雲の月山富田城に拠る尼子晴久が美作に侵攻すると、斎藤玄蕃は尼子氏に降伏し、尼子氏の属将となった。
永禄八年(1565年)、毛利元就の軍勢が尼子氏の居城である月山富田城を包囲した。尼子氏は小田草城の斎藤氏の下に平野又右衛門を派遣し、援軍を要請する。
だが斎藤氏は援軍の要請を拒絶する。平野又右衛門は落胆して自刃したとされる。
小田草神社の参道前には、平野又右衛門が自刃した跡とされる「お前返し」の石碑がある。
また、城跡の南の林を抜けると、小田草城馬場跡がある。
小田草城の武士たちが、乗馬の訓練をした場所だろう。今はのどかな田園風景が広がっている。
斎藤氏は、その後も尼子氏に従っていたが、尼子氏は毛利氏により滅ぼされた。天正六年(1578年)に斎藤氏は、毛利氏に敵対する宇喜多氏の傘下に入った。
馬場跡には、古びた小さな石造五輪塔があった。
小田草城を巡って亡くなった武士たちを慰霊するための石造五輪塔だろう。
名もなき武士を慰霊する石塔は、今も日本のあちこちに残っている。これもその一つだ。
現代を生きる我々より前に、無数の人たちがこの列島に生を得て死んでいった。そのことを忘れてはならないと思う。