興禅寺の裏にある標高約356メートルの城山上にあるのが、黒井城跡である。
この城は、日本城郭協会が定めた続日本百名城の一つである。因幡の若桜鬼ヶ城跡に次いで、私が2番目に訪れた続日本百名城である。
麓から見上げても、城山の頂上付近が平らになっているのが分る。あそこが、黒井城跡の本丸、二の丸、三の丸といった主郭部分である。
興禅寺西側の南北道を北に上がると登山口がある。
保月城址登山口と刻まれた石碑が建っている。保月城は、黒井城の別名である。
登山口に来て驚いたのは、「熊出没注意」の幟が立てられていることである。思わずクマよけの鈴を取り出した。
登山口脇の駐車場には、登山客が多数いたので、少し心強く思った。
駐車場の説明板には、登山路として「ゆるやかコース」と「急坂コース」が書いてあったが、私は「ゆるやかコース」を行く事にした。
黒井城は、建武二年(1335年)に赤松円心の次男赤松貞範が最初に築いたとされている。ここも赤松ゆかりの地だったのだ。
その後、応仁文明の乱(1467~1477年)のころに地元の豪族荻野氏の居城になった。
丹波国氷上郡の国人だった赤井時家の子、赤井直正(1529~1578年)は、荻野氏の養子に入った。
直正は、伝説では9歳で家臣を手討ちにし、13歳で内藤氏との合戦で初陣を飾った豪の者で、25歳の天文二十三年(1554年)に外叔父の荻野秋清を殺害し、黒井城を奪った。
黒井城主となった直正は、自らを悪右衛門と称し、黒井城を大改修した。
赤井家の主筋だった兄・家清の死後は、兄の子・忠家の後見人となり、黒井城を拠点に周辺の敵を撃破し、赤井家の勢力を拡大していった。
直正は荻野家に養子に入っていたので、正式には荻野姓だが、当ブログでは、以後通称の赤井直正の名で説明する。
城山登山口には、直正が城主だった時に、城山中腹に創建した豊岡稲荷社があった。
黒井城が廃城になった後も、山上に変わらず祀られていたが、大正時代に地元信者の手により麓に移転されたそうだ。
このお稲荷さんは、愛知県の豊川稲荷を本社とするようだ。つまり仏教系のお稲荷さんだ。
登山が無事に終わることを祈った。
登り始めると雨が上がった。頂上に着く時まで天気がもってくれることを祈った。
それにしても、自分を悪右衛門と呼ぶのはどういう気持ちなのだろう。ここで言う悪とは、悪人というより、剛勇の持ち主という意味らしい。
赤井直正は、自信満々な人だったようだ。周辺の豪族からは、赤井の名から「丹波の赤鬼」と恐れられた。
赤井直正は、ライバルの内藤氏を撃破し、氷上郡、天田郡、何鹿郡の奥丹波三郡の支配者となり、堂々たる戦国大名になった。
しかし、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、早々に織田家に帰順した。
信長が義昭と対立を始め、義昭を追放して室町幕府を滅ぼすと、直正は織田家に反旗を翻し、義昭を中心とした信長包囲網に参加した。
天正三年(1575年)、赤井直正は但馬に侵攻し、山名祐豊配下の但馬竹田城を攻撃した。
山名祐豊が信長に応援を求めた。信長は明智光秀に丹波平定を命じた。光秀率いる織田軍が丹波に入って来たので、直正は黒井城に戻った。
天正四年(1576年)、明智軍が黒井城下に迫ったが、織田方だった筈の八上城の波多野秀治が突如反旗を翻し、明智軍を攻め始めた。赤井直正勢も明智軍を攻撃し、挟み撃ちにした。
背後を突かれた明智軍は黒井城の包囲を解いて撤退した。
これを、赤井直正が波多野秀治と事前に示し合わせ、明智軍を丹波の奥深くに誘い込んでから包囲殲滅する作戦(赤井の呼び込み戦法と呼ばれる)だったとする説もあるが、真相は分からない。
江戸時代に成立した軍学書「甲陽軍鑑」には、名高き大将衆13人の筆頭に、「丹波の赤井悪右衛門」が挙げられているという。
今では赤井直正は然程有名ではないが、江戸時代初期には名将として知られていたのだろう。
さて、登山道をしばらく歩くと、赤い門が見えてきた。
この門は、石踏みの段と呼ばれる曲輪の跡に建っている。
この石踏みの段の下を見ると、何段もの曲輪がある。
この赤門は、城の門と言うより、寺社の門のようである。黒井城の遺構ではなく、麓の豊岡稲荷社がここにあった当時の神門であろう。
赤門の奥には、「故黒井邑主赤井公招魂碑」と刻まれた石碑がある。
割と新しい石碑であった。恐らくこの石碑のあった場所に、大正まで豊岡稲荷社の本殿が祀られていたことだろう。
赤井直正は、天正六年(1578年)に死去した。翌天正七年(1579年)に光秀は八上城を攻略し、続けて直正の子の直義が立て籠もる黒井城を攻略した。
直義は城を脱出し、後に伊賀の藤堂家に仕え、父と同じく悪右衛門を称した。彼は太平の世になってから、父祖の地元である黒井を訪れて、興禅寺の再興に関与し、祖先の菩提を弔ったようだ。
この城を訪れたことにより、また一つ戦乱の世のドラマを知ることが出来た。