三成古墳

 道の駅久米の里から西に走り、岡山県津山市中北下にある国指定史跡・三成(みつなり)古墳を訪れた。

 三成古墳は、中北下の集落にある真言宗寺院・密厳寺の墓地の奥にある、小高い山の頂付近に築かれた前方後方墳である。二つの方墳がつながった形をしている。

三成古墳の築かれた山

 三成古墳が発見されたのは、昭和52年のことである。割合最近のことだ。

 岡山県北部には、前方後方墳という特異な形式の古墳が多い。

 岡山県北部最大の古墳も、以前紹介した前方後方墳、植月寺山古墳である。

三成古墳(左側が前方部)

 三成古墳の周辺は、雑木や雑草が刈り払われ、芝生が敷かれて、墳丘を認識しやすい。美麗な古墳だ。

三成古墳の図

 それにしても、岡山県北部にはなぜ前方後方墳が多いのだろう。

 出雲を中心とする山陰地方では、弥生時代中期から古墳時代に入るまでの間、方墳の四隅が突出した形式の、四隅突出型墳丘墓という墓が築かれた。山陰が大和王権支配下に入るまでの間に作られた墓の形である。

 岡山県北部でも四隅突出型墳丘墓は築かれた。大和王権の「様式」である前方後円墳と、山陰独特の四隅突出型墳丘墓が合体した姿が、前方後方墳なのだろうか。

前方部から後方部にかけての墳形

後方部から前方部を望む

前方部から後方部を望む

 三成古墳は、5世紀前半に築造された古墳である。久米川流域の収穫を経済基盤にした首長の墓であろうと言われている。

 墳長は約35メートルで、比較的小型の古墳である。

 まだ溜池を作る技術や灌漑技術が未熟だった時代には、田は川の近くにしか拓くことが出来なかった。

 必然的に川の近くに集落が出来て、川の周辺に古墳が築かれた。

後方部から前方部にかけての墳形

後方部に残る葺石

 私の地元の播州なら、揖保川沿い、加古川沿い、明石川沿いに古墳が集中して存在する。

 狩猟採集が主だった縄文時代の遺跡は山地にあったりするが、稲作をしていた弥生時代の遺跡は川の近くにあることが多い。

 交通事情が悪い時代は、食料獲得手段と人の居住地には密接な関係がある。

 「日本書紀」などには、古代天皇の治績として、溜池の造営がよく挙げられているが、溜池は食料増産に直結する技術だったわけだ。

 三成古墳では、前方部と後方部の頂上から一つずつ大きな石棺が見つかり、後方部の斜面に3つの小さな石棺があった。小さな石棺は子供のもので、大きな2つの石棺は夫婦のものだろうか。

後方部の石棺

 後方部頂にある第一主体と呼ばれる石棺からは、日本製の変形四獣鏡と鉄剣、鉄斧、勾玉が各1個発掘された。

 5世紀前半の地元豪族の埋葬品だろう。まだ日本人が仏教を知らない時代の埋葬品である。

 墓の形式は、時代によって変わっていく。今の日本の墓地に並ぶ墓の姿は、昔からのものではなく、江戸時代以降のものである。

 これから少子高齢化無宗教化が進み、日本の墓の在り方も変わって来るだろう。

 あちこちで墓じまいが行われ、合同墓が増えて行く事だろう。海に散骨したり樹木葬にするなど、従来の墓を必要としない葬り方も増えてくるだろう。

 時代と共に様々なものが変化するが、墓制の変化にもその時代その時代の人々の世界観が反映されていて、興味深いものだ。