兵庫県洲本市下加茂2丁目付近は、弥生時代前期の水田跡や、中期の周溝墓が発掘された下加茂遺跡があった辺りである。
しかし今は遺跡があったことを示す表示はない。
下加茂1丁目にある蒼開高等学校は、かつて柳学園高等学校と呼ばれていた。
昭和38年の柳学園高等学校の建設工事中に発掘されたのが、弥生時代後期の住居址である下加茂岡遺跡である。
下加茂岡遺跡からは、隅丸方形の竪穴住居跡や土器類などの当時の生活用具が見つかった。
洲本平野には、弥生時代全域を通して田が作られ、集落が点在していたようだ。
人間が生活している光景というものは、いいものだ。我々の今の生活も、後世の人から見たら、生きた遺跡である。
弥生時代後期は、古墳時代前期に接続しているが、柳学園高等学校の裏山から発掘されたのが、淡路島内唯一の古墳時代前期の古墳、コヤダニ古墳である。
コヤダニ古墳のあった辺りは、今は蒼開高等学校の敷地内なので近寄れない。
コヤダニ古墳からは、三角縁神獣鏡が1枚発掘された。三角縁神獣鏡は、淡路ではこの1枚しか見つかっていない。
洲本が古墳時代前期のころから淡路の中心だった証である。
洲本市宇山3丁目の辺りは、弥生時代の前期~後期の遺跡である武山遺跡のあった場所である。
ここも遺跡があったことを示すものは何もない。人が生活した痕跡は、すぐになくなってしまうものだ。
次に訪れたのが、洲本市炬口(たけのくち)2丁目にある炬口八幡神社である。
炬口八幡神社の祭神は、八幡大神こと応神天皇と神功皇后、玉依姫(たまよりひめ)命である。
延喜二十一年(921年)に、京都石清水八幡宮の分霊を勧請して創建されたそうだ。
拝殿は再建されたばかりの真新しいものだった。
本殿は、オーソドックスな三間社流造である。
この神社には、国指定重要文化財である伝新田義貞着用の甲冑が伝わっている。大永七年(1527年)に炬口城主の安宅吉安が奉納したものであるという。境内の宝物庫に収蔵されていることだろう。
この甲冑は、毎年3月27日の春祭りの際に公開されるらしい。
湊川の合戦で敗れた新田勢が淡路に落ち延びたという伝承は、淡路各地に残っている。
新田氏は源氏であり、源氏の氏神である八幡大神とは所縁が深い。
炬口八幡神社から西に歩くと、洲本市宇山2丁目に近代和風建築の春陽荘がある。
春陽荘は、昭和16年に造船業で富を得た岩木氏の邸宅兼事務所として建てられた。
現在は国登録有形文化財になっている。
この建物は、風水の思想に基づいて棟が配置されている。敷地中央の寝室棟(土気)を基準に、東南に住居棟(火気)、西南に事務所の洋館(金気)、北西に客室棟(水気)、北東に茶室・浴室(木気)が配置されている。
春陽荘は、現在は体験宿泊施設として公開されているが、私が訪れた時は中には入ることが出来なかった。
今回紹介した史跡は、地域的には半径数キロメートルの狭いエリア内にある。
弥生時代の遺跡跡、古墳時代前期の古墳跡、平安時代に創建された神社、戦国時代に奉納された南北朝時代の甲冑、昭和初期の近代和風建築と、狭いエリアにまるで地層の重なりのように人間の生活の痕跡が上書きされている。
私たちが今住む町の一角も、何も痕跡が残っていなくても、必ず古い人たちの生活の跡に上書きされて出来た場所なのである。