沼島八幡神社

 神宮寺の隣には、沼島の氏神である沼島八幡神社がある。

 私は、山川出版社の「歴史散歩」シリーズを基にして史跡巡りをしている。「兵庫県の歴史散歩」上巻には、沼島八幡神社は出てこないが、沼島を代表する神社なので、番外編として紹介しておく。

沼島八幡神社

 沼島八幡神社は、永享八年(1436年)に梶原景俊の手により創建された。

    鳥居を潜ると石段があるが、鳥居から神門までの42段が男坂、神門より上の33段が女坂と呼ばれている。

男坂と神門

女坂

 この石段を登れば、拝殿の前に出るが、拝殿の前からは沼島の集落と淡路本島までを目に納めることが出来る。

沼島の町と淡路本島

 拝殿は、桁行が長い横長の造りである。八幡神社の拝殿は、どこに行っても大体こういう形をしている。

拝殿

 拝殿に上がると、多くの絵馬が奉納されている。

 中でも目立つのは、正面に掛けられた賤ケ岳の合戦の大きな絵馬である。

賤ケ岳の合戦の絵馬(赤色の旗指物を差したのが脇坂安治

 絵馬の中央には、秀吉に仕えた賤ケ岳七本槍の一人、脇坂安治が描かれている。

 賤ケ岳の合戦で戦功を挙げた脇坂安治は、秀吉から洲本3万石を拝領する。

 領地である沼島を訪れた安治は、沼島の漁師達の人柄に感銘を受けた。

 沼島の漁師達は、卓越した操船技術を有していたので、戦時には水軍の水主(かこ)として動員された。

本殿正面

 その後、沼島水軍は、安治の麾下で小田原城北條攻め、文禄・慶長の役朝鮮出兵)に従軍した。

 朝鮮出兵で、沼島水軍は、対馬五島列島沖を通過した際に、膨大な魚群をみつけた。

 朝鮮出兵から帰島した沼島水軍の船乗り達は、沼島八幡神社に無事に島に帰ったことを報告した。

 その後、「よそいき」という船団を率いて、対馬五島列島沖で漁をして、莫大な利益を上げた。

本殿

 この「よそいき」船団が挙げた利益のお陰で、沼島は「沼島千軒金の島」と言われるほど繁栄したそうだ。

 地元の人は、沼島の繁栄のきっかけを作った脇坂安治に感謝して、この絵馬を奉納したのだろう。

 拝殿の背後に回ると、檜皮葺、三間社流造の本殿がある。新しい本殿である。

本殿

木鼻

 祭神は勿論誉田別命である。南無八幡大菩薩。八幡さまは、日本で最も祀られている神様である。日本の守護神と言ってもいいだろう。

 沼島八幡神社から石段の向こうを見ると、参道の向こうに沼島漁港が見える。

沼島八幡神社から眺めた沼島漁港

 昔から沼島八幡神社は、この場所から島の船乗りたちを見守って来たのである。

 さて、沼島八幡神社から北東に行くと、神宮寺の墓地がある。

神宮寺の墓地入口

 この墓地には、二基の石造五輪塔がある。この内向かって右側の塔は、梶原景時の墓だとされている。

神宮寺の墓地

梶原景時の墓とされる石造五輪塔

 梶原景時は、元は平氏に仕えた武将だった。頼朝が打倒平氏の兵を挙げて、石橋山の合戦で敗れた時、洞窟に潜んでいた頼朝を見つけた景時は、頼朝を捕らえずに見逃した。

 頼朝が房総半島で再起し、関東を制圧した際に、景時は頼朝に降服し、以後頼朝の腹心として活躍した。

古い供養塔

 景時は、頼朝の死後、他の御家人達と対立し、誹謗された。景時は、自ら鎌倉を立ち退いて、一族郎党を引き連れて京に向かった。

 その途中、駿河国清見関で地元の武将に襲撃されて敗れ、自決した。

 沼島の領主となった梶原氏は、この景時の子孫を名乗った。沼島の梶原氏の出自はよくわかっていない。

 この石造五輪塔は、鎌倉時代中期に建てられたものだそうだ。兵庫県指定有形文化財である。この石造五輪塔が本当に梶原景時の墓なのかどうかは分からない。

 梶原景時の墓の北側には、沼島庭園と言われる旧伊藤邸庭園がある。

沼島庭園の入口(右側の道)

 旧伊藤邸の奥に庭園があるが、旧伊藤邸は藪に覆われていて全く手入れされていなかった。

 藪をかき分けて進むと庭園が見えた。

 庭園に近づいて写真を撮ろうとしたが、周囲を蜂が飛び交っていて、私の体にも付き始めたので、大急ぎで1枚だけ写真を撮って退散した。

沼島庭園

 おかげでぶれた写真しか撮れなかった。

 旧伊藤邸庭園は、戦乱の続く京から沼島に逃れてきた室町幕府10代将軍足利義植が作庭したものとも、江戸時代後期に作庭されたものとも言われている。

 沼島産の黒色片岩や緑色片岩を用いて力強い石組みがなされた池泉式庭園であるらしいが、ゆっくり鑑賞することが出来なかった。

 古代の海人族にしろ、梶原氏にしろ、足利義植にしろ、脇坂安治にしろ、海を越えて渡って来た人が続々と沼島に新しい文化や機会を齎した。

沼島に渡って来た海人族を描いた絵馬

 そう思うと、沼島の歴史は、日本の歴史の縮図のようだ。

 日本には、氷河期に旧石器時代人が陸伝いに渡ってきた。その数は約1,000人と言われている。

 旧石器時代人は、日本列島に広がり、縄文人になった。

 その後、弥生時代に渡来人が日本にやってきて、縄文人と混血し、弥生人となった。

 更に古墳時代に、大陸や半島から日本列島に大量の渡来人が渡ってきて、弥生人と混血した。古墳時代に渡来してきて弥生人と混血した人たちを、最近の学会の一部では「古墳人」と呼んでいるそうだ。

 古墳人と現代の日本人のDNAの組成はほとんど一緒で、どうやら古墳時代に現代の日本人の原型が出来上がったようだ。

 現代日本人のDNAの内、15%が縄文人、10%が弥生時代の渡来人、75%が古墳時代以降に日本に渡来した人のものだそうである。

 そうとすると、現代日本人の血の85%は弥生時代以降に海を渡ってきた人のものになる。

 日本人の全員が、海を渡ってきた人たちの末裔なのである。