鳥取市歴史博物館やまびこ館 前編

 鳥取東照宮のある樗谿公園の一角に、鳥取市内の遺跡や古墳などから発掘された遺物を収蔵・展示する鳥取市立歴史博物館やまびこ館がある。

鳥取市歴史博物館やまびこ館

 私は、この建物の中にあるレストラン「ヒストリア」で昼食を摂った。

 この日の午前中、炎天下を寺巡りや墓探しに費やし、疲労が溜まっていたが、冷房がよく効いたレストランに入り、ほっと一息つくことが出来た。

 鳥取市歴史博物館では、企画展「鳥取城のあゆみ」をやっていた。

企画展「鳥取城のあゆみ」のポスター

 鳥取城に関する展示は、いずれ鳥取城跡の記事で併せて紹介したい。

 鳥取市歴史博物館には、縄文時代から現代まで、鳥取市の歴史に関する資料が展示されている。

 縄文時代の資料として最も目を引くのは、鳥取市福部町にある栗谷遺跡からの出土品である。

 栗谷遺跡は、鳥取砂丘の背後にある低湿地に営まれた縄文時代後期の遺跡である。

縄文土器 深鉢 浅鉢

 遺跡からは37か所の貯蔵穴が見つかり、それぞれの貯蔵穴から様々な出土品が見つかった。

 その中でも、食べ物の煮炊きに使われた深鉢は、黒い炭が付着し、長年火に曝された跡が露わである。

 水平口縁に突起状の飾りが付いている。上の写真手前の2つの深鉢は、縄文時代の生活文化を表すものとして、国指定重要文化財になっている。

 縄文時代の桂見遺跡から出土した丸木舟の櫂は、長大で目を惹く展示品である。鳥取県指定保護文化財である。

縄文時代の丸木舟の櫂

 櫂は全長134センチメートルで、先端は扁平で、握部付近は円形に作られている。

 桂見遺跡からは、杉製の丸木舟が2艘出土している。1号丸木舟は、全長7メートルを超え、外洋での漁撈や長距離移動に適していた。

 櫂は、丸木舟の運航に必要不可欠なものである。

 縄文時代は、意外にも遠洋航海が行われていた時代であった。

 鳥取を代表する弥生時代の遺跡は、鳥取市青谷町青谷に所在する青谷上寺地遺跡である。

 この遺跡も低湿地に残された遺跡である。通常は酸化したり腐敗して残りにくい木製品や骨角器、金属器、動物の死体などが見つかった。

 この遺跡から発掘された、杉材で作られた弥生時代の箱状の指物の複製品が展示してあった。

箱状木製品

 側板4枚と底板1枚を組み合わせ、目釘で固定している。この時代に釘を使った製品があったのだ。

 側板には、蛇のような彫刻が見える。

 弥生時代には、金属器が普及し、精巧な木製品が作られるようになった。

 農具なども、当時は木製品が主流だった。

木製品の農具

 また、青銅器を使った祭祀も弥生時代に始まった。銅鐸や銅剣、銅矛も祭祀の道具である。

銅鐸や銅剣

 青銅器や鉄器は、当時のハイテク工芸品だろう。

 現代では、宗教的祭祀に最新のテクノロジーを使うことはない。当時は、宗教的祭祀と最新テクノロジーは矛盾していなかったどころか、結合していたようだ。

 鳥取市桂見にある桂見2号墳は、弥生時代の墳丘墓から古墳への過渡期のものと言える、古墳時代初期の墳丘墓である。

 巨大な墓壙に納められた長大な木棺から、中国後漢の時代に作られた銅鏡2枚や、鉄刀、刀子などの鉄製品が出土した。

桂見2号墳から出土した銅鏡

桂見2号墳から出土した鉄製品

 鳥取市正蓮寺にある古墳時代初期の方墳の面影山74号墳からは、翡翠製勾玉、棗玉、碧玉製管玉の首飾りが出土した。

面影山74号墳出土の首飾り

 緑色の翡翠の勾玉が美しい。

 古墳時代中期には、大陸から乗馬という技術が伝わった。

 金属製の馬具や、馬を象った埴輪などが出土するようになる。

鳥取市菖蒲 釣山2号墳出土 馬形埴輪

 馬に乗ることで、人間は徒歩の数倍の速さで移動できるようになった。

 馬が走るための道も、日本中で整備されたことだろう。

 また古墳時代中期には、鉄製の鎧や兜が普及した。

鳥取市倭文6号墳出土 鋲留短甲

 鳥取市倭文6号墳出土の鋲留短甲の中からは、束になった鉄鏃が見つかった。鳥取県指定保護文化財である。

 これらの鉄鏃、鎧・兜は、実戦で使われたものであろう。

 当時の日本は、東国や朝鮮半島で戦っていた。

 鳥取市福部町の蔵見3号墳からは、鳥形の瓶の須恵器が発掘された。ここは、古墳時代最終末期の古墳である。

須恵器鳥形瓶

 当時は鳥は死者の霊を運ぶ生き物とされた。鳥形瓶は、死者の葬儀に使われたものだと言われている。これも鳥取県指定保護文化財である。

 また、蔵見3号墳からは、仏教寺院の屋根に載る鴟尾が付いた陶棺が発掘された。鳥取県指定保護文化財である。

鴟尾付陶棺

 古墳時代の最終末期は、寺院が日本中に建立された時代と重なる。

 寺院建築の特徴である鴟尾が付いた陶棺が、古墳から発掘されたのは、まさに古墳から寺院への過渡期を象徴する遺物の発見と言ってよい。

 どんな時代も、ある時代の先触れであり、ある時代の余響である。

 現代も、未来の先触れと言える。