ペスタロッチ館の中には、鏡野町内の遺跡や古墳から出土した遺物や、郷土が生んだ自由民権運動家中島衛に関する資料を展示する鏡野郷土博物館がある。
鏡野町には、竹田遺跡や恩原遺跡、赤峪(あかざこ)古墳などの遺跡、古墳がある。
ここには、恩原遺跡と赤峪古墳からの出土品も展示されているが、これらの展示品は、それらの遺跡や古墳を紹介するときに改めて掲示したい。
今まで見学したことがある古代遺物の中で見たことがなかったのが、古墳時代前期の東花穴1号墳から出土した土器棺である。
古墳の埋葬者は、大抵石棺に葬られたが、このような土器棺に入れて埋葬することもあったのだ。
また古墳時代後期の塚谷五輪埴輪散布地から発掘された人物埴輪の破片は、デフォルメされた人物像の破片が可愛らしい。
鏡野郷土博物館には、岡山県西北条郡香々美中村出身の自由民権運動家中島衛に関する展示がある。
中島衛は、天保十四年(1843年)に大庄屋中島多右衛門の長男として生まれた。
明治11年、35歳の時に、産業の発達と人知の伸張を目的とする共之社(きょうししゃ)に参加する。
明治13年に津山の立石岐(たていしちまた)と郷党親睦会を創設し、美作の自由民権運動を指導した。
同年岡山県会議員になり、国会の開設を政府に請願する国会請願同盟会を結成した。明治14年には、同会を美作同盟会に発展させた。
明治15年に美作自由党を結成するが、明治18年に43歳で病没する。
自由民権運動は、西欧の天賦人権論に基づく自由・平等の思想をバックボーンにして、憲法制定、国会開設、地租軽減、不平等条約改正、地方自治を目指した運動である。
今の日本には憲法があって国会があり、民意が政治に反映されるのは当たり前だが、明治初年は憲法もなければ国会もなかった。
天皇の出す詔勅や太政官布告、太政官達に基づいて、維新の功臣や公卿たちによって政治が行われていた。
展示品の中には、明治初期に行われた刑罰の一つ、杖刑で使われた刑杖が展示されていた。
刑を受ける者は、大庄屋の中島家の玄関前で、刑吏人からこの刑杖で尻や背中を叩かれたという。
自由民権運動家を中心として盛り上がった国会請願運動の効もあって、明治14年に政府は、明治22年をもって憲法を制定し、国会を開設すると決めた。
中島衛のような、地方の草の根運動家の活動は、決して無駄にはならなかった。
もちろん大日本帝国憲法下の民主主義は不完全なものだったが、それでも有司専制よりは前進した。
今のウクライナ戦争を見ても思うが、民主主義は国民の不断の努力により発展し、維持されるものである。誰かが与えてくれるものではない。日本の民主主義の獲得に努力した先人の苦労には頭が下がる。
ペスタロッチ館の北側の削れた丘の上に、竹田遺跡の一部が残っている。
竹田遺跡は、鏡野町竹田から発掘された縄文、弥生時代の遺跡のことだが、発掘後の道路整備で、遺跡の大半は消滅した。
道路の北側の削れた丘の上に、縄文時代の遺跡が残された。丘の上に続く石段を上ると、フェンスに囲まれた遺跡がある。
遺跡と言っても、今は雑草に覆われた空き地にしか見えない。
雑草の中にとぐろを巻いた蛇がいて、思わず踏みつけそうになった。
竹田縄文遺跡は、約8000年前の縄文時代早期中葉の遺跡である。
ここからは、二重の杭列が楕円形に並ぶ住居跡6棟と炉跡1か所が見つかった。
また遺跡からは土器や石鏃などが見つかった。
6棟の建物が同時代にあったのではなく、小家族がここで生活し、何度も住居を建て替えた跡だという。
また、竹田遺跡から発掘された弥生時代の住居跡は、焼けた跡があり、焼けた泥の形状から、屋根が泥で葺かれていたことが分かったという。
以前兵庫県たつの市の新宮宮内遺跡を紹介したが、あそこには土で屋根を葺いた竪穴住居が復元されていた。
我々のイメージでは、古代の竪穴住居は茅葺であるが、実は土葺がメインだったことが最近分かって来た。
約8000年前から、この地に人が居住し、その子孫が自由の思想に目覚め、大きな戦争を経て今も人がこの地に生きている。
こんな小さな町の歴史からでも、人間の歴史の偉大さを感じることはできる。