志知城跡

 ハバ古墳のあった南あわじ市立志知小学校から東進し、南あわじ市志知松本にある志知城跡を訪れた。

志知城跡

 志知城は、鎌倉時代初めに菅和泉守道忠によって築城されたと伝わっている。南北朝期には、南朝方の志知の武士が、この城を拠点に淡路西浦から京に出陣したと言われている。

 志知城跡のすぐ東側を大日川が流れている。大日川はここから北に流れ、播磨灘に流れ込む。

志知城跡の北側の切岸

 船を使えば、大日川を伝って、播磨灘に進出できるため、志知城は淡路水軍の拠点となった。

 戦国時代には、野口長宗が城主となっていたが、天正九年(1581年)の秀吉の淡路攻めにより降伏開城した。

 その後、黒田官兵衛孝高が城を預かり、秀吉の四国攻めの拠点とした。

 天正十三年(1585年)に加藤嘉明三原郡1万5千石の城主として入城した。

城の縄張り図

城北側の内堀跡

 加藤嘉明は、志知城を拠点にして、秀吉の九州征伐、小田原攻め、文禄の役に淡路水軍を率いて参戦した。

城の東側の二の丸跡

城の東側の内堀跡と伊勢神社の鳥居

 文禄四年(1595年)に加藤嘉明文禄の役の功により伊予松前城に転封になると、秀吉の代官の石川光之が城主となった。光之は三原川河口に近い場所に叶堂城を築き、志知城を廃城とした。

 志知城の石垣は、叶堂城に運ばれて再利用されたという。

志知城跡の石碑と太閤石

 城跡の真ん中に南北道が通っていて、その東側に二の丸跡、西側に本丸跡があったとされている。

 二の丸跡と本丸跡の境に、志知城跡の石碑と、四国攻めで秀吉が在城した時に腰を掛けたと伝わる太閤石が置いてある。

太閤石

 本丸跡とされる城跡の西側は、一面の竹林で、遺構の存在を窺うことが出来ない。

本丸跡の竹林

 竹林に西に向かう一条の道がついていた。道を抜けると本丸跡の西側に出る。西側にも内堀跡があるが、そこから見返ると、本丸跡の切岸が見て取れる。

本丸跡西側の内堀跡

本丸跡西側の切岸

 志知城跡の東側には、伊勢神社という小さな神社がある。古くから志知庄の産土神として崇敬されている。

 神社からは、天正四年(1576年)に志知城主野口長宗が本殿を再建したと書いた棟札が見つかっている。

伊勢神社

拝殿

本殿

本殿蟇股の彫刻

脇障子の彫刻

 加藤嘉明は、文禄元年(1592年)の文禄の役出陣に際し、伊勢神社に戦勝を祈願したそうだ。

 神社は、元和元年(1615年)に造営修理され、大正14年に本殿と拝殿が改築された。

 伊勢神社の社殿は、真っすぐ志知城跡の方向を向いている。志知城を拠点とした武士たちを見守り続けた神社である。

 さて、日が西に傾いたので、私は家路につくことにした。

 神戸淡路鳴門自動車道の西淡三原ICから高速道路に乗るのだが、西淡三原IC東側の高架下の入貫川が流れる辺りは、弥生時代前期~古墳時代後期の集落跡が発掘された雨流遺跡のあった場所である。

雨流遺跡のあった辺り

 また西淡三原ICのある辺りは、弥生時代前期の壺棺が発掘された志知川沖田南遺跡のあった場所である。

志知川沖田南遺跡のあった辺り

 これらの遺跡跡を確認した後、私は西淡三原ICから神戸淡路鳴門自動車道に入り、高速道路を北上して家路についた。