11月8日に、今まで行きそびれていた津山市の弥生時代の遺跡と津山弥生の里文化財センターを巡った。
「岡山県の歴史散歩」に載っている遺跡名を、文化財総覧webgisのサイトで検索して位置を特定し、訪問した。
津山盆地からは、弥生時代の遺跡が多く発掘されている。弥生と名の付く地名や学校、建物も多い。
津山盆地は、弥生時代から開けた土地だったのだ。
今回訪れた遺跡は、沼遺跡を除いては、遺跡公園として整備されたり、石碑などのモニュメントがあるものはない。
そのため申し訳ないが、無味乾燥とした記事になる。
津山中核工業団地の中に工場群があるが、津山市金井にある株式会社電研社岡山工場の辺りから、弥生時代後期の集落跡である一貫東遺跡が発掘された。
おそらく、工業団地の開発に際して発掘されたものだろう。今は遺跡を示すものは何もない。
近くに一貫東古墳がある。集落は古墳時代まで存在したようだ。
近くには広戸川が流れている。広戸川の水を稲作に利用したのだろう。
次に訪れた天神原遺跡は、中国自動車道津山ICの南東から発掘された遺跡である。
ここは、弥生時代前期、中期、後期を通じて環濠集落が営まれた場所である。
中国自動車道の建設に際し発掘されたのだろう。
ところで、弥生時代の前期、中期、後期とはいつを指すのだろう。
弥生時代は、水稲耕作が行われるようになってから、前方後円墳が作られるようになるまでの時代を指す。
通説では、弥生時代の始まりは、紀元前5世紀ころとされてきた。
弥生時代早期が紀元前5世紀から紀元前300年ころまで、前期が紀元前300年ころから紀元前200年ころまで、中期が紀元前200年ころから1世紀前半まで、後期が1世紀前半から古墳時代の始まる3世紀半ばまでである。
ところが、平成15年に国立歴史民俗博物館が、弥生式土器に付着した炭化物の年代測定を、放射性炭素年代特定法によってしたところ、紀元前10世紀ころのものと分かった。
この結果によると、日本における水稲耕作の始まりは、一挙に500年以上遡ることになる。
とは言え、この測定結果による新説は、まだ定説にはなっていないようだ。
当ブログでは、通説を基に話を進めていく。
次に津山市押入の住宅街北側から発掘された、弥生時代中期の集落遺跡である押入西遺跡に赴いた。
ここは中国自動車道沿いの住宅街である。中国自動車道と宅地開発の結果発掘されたものだろう。
次は、津山市山北の津山工業高等学校の敷地西側から発掘されたという一丁田遺跡に赴いた。
ここは、弥生時代前期の集落跡が発掘された場所である。津山工業高等学校の建設工事に際して見つかったものだろう。
次は、津山市沼の宮川左岸から発掘された京免遺跡に赴いた。
ここは、弥生時代前中後期にまたがる環濠集落が発掘された場所である。
宮川の水を利用して、水稲耕作が行われていたようだ。
さて、津山市沼の丘陵上には沼遺跡(沼弥生住居跡群)がある。
私はここを令和3年4月に訪問し、記事にした。
この時に、沼弥生住居跡群に隣接して建つ津山弥生の里文化財センターを見学しようとしたが、閉館していて入ることが出来なかった。
今回は、平日だったので開館していた。
この資料館は、弥生時代に特化した展示をしている。弥生時代のことをここまで分かり易く展示した資料館は見たことがない。
お陰で、弥生時代を身近に感じることが出来た。
館の入口には、古墳時代の遺物だが、美作から多数出土している陶棺が展示されている。
全国から出土した陶棺の半数は、美作から出土している。古墳時代後期に盛んに作られるようになったものである。
館1階にある展示室1が、弥生時代の資料を展示している部屋である。
展示室1に入ってすぐに、左右に分かれた竪穴住居の復元模型がある。左側では石器づくりの様子が、右側では土器づくりの様子が再現されている。
石器と土器、そして木器は、弥生時代に使われた道具の中で主要なものである。
弥生時代後期には、鉄器などの金属器が普及しだしたが、高価なためまだまだ主流にはならなかった。
ところで、竪穴住居の模型を見て気づいたが、床に莚(むしろ)が敷いてある。土の上で直接寝起きする生活をしていては、冷たいし、湿気もあって不衛生だろう。
莚がいつから使われるようになったかはっきり分からないが、床が土である住居では、莚の存在は、防寒、防湿の観点から、非常に重要だったろう。
ところで弥生時代は、水稲耕作つまり米作が日本に伝わったことで始まった。
揚子江以南が古代中国で米作が行われていた地域である。
揚子江流域から直接、又は朝鮮半島を経由して米作が日本に伝わったとされている。
「古事記」「日本書紀」の神話を見ても、日本の神々には、稲に関連する神名が多い。
神武天皇の曽祖父とされる邇邇芸(ににぎ)命は、天照大御神の神勅を受けて、高天原から日向の高千穂峰に降臨した。
その子孫の皇室が、その後の日本の統治者になるが、邇邇芸命という神名は、稲穂がにぎにぎしく実っていることを表している。
また邇邇芸命が降臨したという高千穂峰は、稲穂が高く積まれた場所を指している。
つまり、皇室が日本に君臨する根拠とされる天孫降臨説話は、稲作の伝来を現わしているのだ。
米を主食として敬い、皇室を戴く我が国は、弥生時代の文化の後継者なのである。
さて、水田を作るには、まず地上に広がる森林を切り拓くことから始めなければならない。そこで重要なのは、斧という道具である。
倒した木は、竪穴住居を建てる際の柱に使われたり、火を焚く燃料にされたことだろう。
この時代の斧は、石器で作られていた。石斧というものである。
普通に考えればわかることだが、金属製の斧と石斧とでは、性能に格段の違いがあった。
1本の木を倒すのに、石斧なら鉄製の斧の何倍の時間がかかることだろう。
そう考えると、鉄器の登場と普及が、いかに劇的に農業の生産性を上げ、人口の拡大をもたらした革命的な出来事だったかが分かる。
それにしても、斧という道具がなければ、林を切り拓き、水田を作ることも出来ない。住居を建てることも出来ない。
石斧で木を伐る作業は大変な重労働だったろうが、この作業が今の日本人の命にまでつながっていることを思うと、先祖の労働に感謝の念が湧いてくる。