篠山の街並みの東側に、東西に古い商家群が軒を連ねる一帯がある。
千本格子、荒格子、虫籠窓などを持った瓦葺、白壁の商家が道の両側に続く。
白壁の街並みを歩くと、江戸時代後期から明治時代にかけての商店街にタイムスリップしたかのような気分になる。
丹波篠山市指定文化財となっている西坂家住宅は、江戸時代の建築である。
入母屋造妻入の中二階建ての建物で、間口の広さは河原町の商家群の中では屈指である。
西坂家の屋号は綿屋で、元は綿花栽培と醤油屋を営んでいた。
こちらは明治時代初期に建築された入母屋造平入の建物で、使用された木材の豪華さは、河原町の商家群で有数であるらしい。
この商家群は、まだ現役の商店として店を開いているところが多く、歩いていて楽しい。
ある商家では、ショーウインドーの中に古丹波を展示していた。
古丹波の大壺のでっぷりとした存在感のある形と、素朴な土の色、緑色の自然釉の味わいが好きだ。
そんな古丹波を収集し、展示しているのが、商家群のなかにある丹波古陶館である。
丹波古陶館は、昭和44年に開館した。丹波窯創成期から江戸時代末期までの丹波焼を収集展示しており、312点の古丹波コレクションは、兵庫県指定文化財となっている。
丹波焼は、備前、常滑、越前、瀬戸、信楽と並ぶ六古窯の一つで、その歴史は平安時代末期に遡る。
丹波焼は、開窯当初は政庁や社寺の求めに応じて祭器、経器、薬壺などの上手物を焼いたが、陶土と窯の条件が悪く、その目的に答えることが出来なくなった。
やがて丹波窯は、大衆の生活を支える窯業集落として、独自の道を歩み始めた。
丹波古陶館の館内は、写真撮影禁止であったため、同館のホームページに掲示された写真を転載させて頂く。
鎌倉時代の古丹波の大壺など、土の中からそのまま生まれてきたかのような素朴で力強い味わいがあって好きなのだが、これも陶工が、陶土と穴窯の条件の悪さと戦って生み出したものなのかも知れない。
上の大壺は、私が展示品の古陶の中で一番気に入ったものだが、ごつごつして均衡が取れていない形といい、自然釉の豪快なかかり具合といい、炎と土の化身のようだ。
口に欠けがあるこの大壺は、耳なし芳一と呼ばれている。
慶長末年、朝鮮半島から登窯や轆轤の技術が伝わり、丹波窯にも革新が訪れた。
登窯と塗土が生み出した赤土部釉は、江戸時代の丹波焼の特徴である。
江戸時代後期になると、白、黒、灰、鉄などの釉薬のかけあわせによる多彩な文様を持った丹波焼が出てくる。色絵も登場する。
丹波焼の歴史は、技術革新の歴史だ。
さて、丹波古陶館の隣には、姉妹館である篠山能楽資料館がある。
篠山能楽資料館の建物は、明治43年に篠山電燈株式会社の建物として建てられた。
昭和40年まで、関西配電(関西電力)株式会社の篠山支店として使用された。その後一時期篠山文化物産会館となったが、昭和51年に丹波古陶館二代目館長中西通によって、篠山能楽資料館として開館した。
館内には、各時代の能面や能衣装、楽器など、能で使用される品々が展示されている。
能楽資料館も館内写真撮影禁止であったため、同館のホームページから写真を転載させて頂く。
能は遠く飛鳥時代に秦河勝が行った申楽や、農村の祭礼で舞われた田楽を起源とすると言われている。
時代と共に洗練されて、様式化の進んだ型で、人間の内面を象徴的に表現するようになり、幽玄の世界をかもし出すようになった。
このような表情に変化のない能面でも、角度を変えることや、型によって表情があるかのように見せる。
丹波篠山には、春日神社に西日本有数の能舞台があり、今でも能会が催されている。
古くから続いて、今も大事に受け継がれているものこそ、民衆の中に息づいた伝統というものだろう。