篠山の城下町の散策を終え、篠山郊外の史跡を訪れた。
先ず訪れたのは、丹波篠山市北にある曹洞宗の寺院、医王寺である。
医王寺に祀られているのは、薬師如来である。お寺というより、お堂というくらいのささやかな建物だ。
医王寺の境内には、兵庫県指定文化財、天然記念物の「医王寺のラッパイチョウ」がある。
この医王寺のラッパイチョウは、漏斗状(ラッパ状)になった葉が全体の1割を占めるという。
イチョウは、恐竜が地球上を歩いていた約2億年前から生息する、現在の地球上で最古の姿を残した樹木である。
ラッパ葉はイチョウの原始葉で、茎が葉になる進化の途上を示すものである。茎の性質を残した葉と言える。
現代人にとって、地上の植物に葉があるのは当たり前だが、実はこれも進化の過程で獲得された機能である。
言うなれば、医王寺のラッパイチョウは、植物の茎が葉に進化した途上の姿を残していると言える。
このイチョウの変異が受け継がれた時間の気の遠くなる長さからすれば、人間の残した史跡など足元にも及ばない。
まあ、我々が持つ脊椎も、約5億3千万年前に登場した地球上初の脊椎動物ヤツメウナギから受け継いだものなのだから、考え方によれば、我々の脊椎の方がイチョウより古いと言えるかも知れない。
ところで、ラッパイチョウの隣には杉が立っていて、イチョウの根と杉の根が絡んでいた。
杉は神社でよく神木とされ、イチョウは寺院によく植えられている。いわば神社と寺院を象徴する樹木同士だが、この絡んだ根を見て、神と仏が同居する日本の信仰の姿を思い浮かべた。
この医王寺の境内にも、神様であるお稲荷さんが祀ってあった。
ここから車を東に走らせ、丹波篠山市川原にある御刀代(みとしろ)神社を訪れた。
この御刀代神社の隣が、丹波黒豆の畑になっていて、丁度農家の人が黒豆を収穫していた。思わず黒豆の味と触感を思い浮かべた。
御刀代神社の境内には、祭神の第27代安閑天皇を祀るお社と、修験道の神様である蔵王権現を祀るお堂が並び建っている。
それにしても何でここに安閑天皇を祀っているのだろう。調べてみると、神仏習合の考えでは、蔵王権現は安閑天皇と同一視されていたという。
蔵王権現は、吉野の金峯山寺の本尊となっている。修験道の祖、役小角が吉野山で修行していた時に蔵王権現の存在を感得したことから、吉野にお祀りされるようになった。
蔵王権現は、密教にも登場しない、修験道独自の、そして日本独自の神仏である。
安閑天皇が武芸に優れていたため、いつしか蔵王権現の化身とされた。安閑天皇は6世紀の在位で、役小角は7世紀の人物である。およそ100年の開きがある。
安閑天皇と蔵王権現が同一視されるようになったのは、修験道が形を整えた平安時代以降ではないか。
明治の神仏分離の際、蔵王権現を祀っていた神社からは蔵王権現が撤去され、その代わり祭神を安閑天皇にしたところが多いという。
御刀代神社のお社は、小さいながら彫刻が凝っている。
さて、その蔵王権現の銅製の立像を祀るのが、隣のお堂である。
ここに祀られる銅造蔵王権現立像は、丹波修験道の行場、御嶽山にあった。
文明十四年(1482年)、丹波修験道は、大峯山を中心とする大和修験道との争いに敗れ、御嶽山の寺院は焼き払われた。蔵王権現立像は、現在の丹波篠山市真南条上の龍蔵寺に遷された。
その後、御刀代神社に遷されたという。雨乞い、マムシ除けの霊験があるとされ、地元の信仰を集めている。
お堂内を見てみたが、蔵王権現は厨子の中で保管されていて、当然姿を見ることが出来なかった。
さて次なる目的地、丹波篠山市大渕にある「土居の内」を訪れた。
土居とは、中世に地元の土豪や国人、名主の住む集落や居宅を外敵から守るために周囲に築かれた土塁のことである。
土塁の外には堀も設けられた。
この土居の内は、中世の土居がそのまま残る場所である。かつての土豪の居館は、今は一般の民家になっているが、民家の周りを囲む土塁と堀がそのまま残っている珍しい場所である。堀は、水田になっていたものを復元したものらしい。
今の日本には、安土桃山時代以降に築かれた城や、江戸時代後期に建てられた武家屋敷は僅かに残っているが、室町時代以前の武士の居館で現存するものはない。再現されたものはあるかも知れないが、私の知る限り当時のものは残っていない。
ただの武士の家は、残す価値が認められなかったのかも知れない。
この土居の内は、土塁ではあるが、中世の地方武士の居館の姿を彷彿させるものとして、価値があるものと感じた。