兵庫県西脇市野村町にある古窯陶芸館は、平安時代末期の窖窯跡を、ドームで覆って保存している施設である。
ここでは、陶芸教室も行われている。
窖窯は、5世紀に朝鮮半島から伝わった。山の斜面にトンネルのように穴を掘って築かれる。穴の中は須恵器を焼く焼成部となり、穴の下側は燃料を燃やして炎を穴の中に入れる燃焼部(焚口)となり、穴の上側は煙り出しとなる。
燃焼部と焼成部の境に、炎のまわりを良くするための分焔柱を立てることがある。焼成温度を1200℃以上に上げる必要がある陶器生産では、分焔柱が必要である。
古窯陶芸館にある窯跡は、緑風台窯跡と呼ばれている。緑風台は、古窯陶芸館のある住宅地の名である。
緑風台窯跡は、昭和55年に発掘された。平安時代後期の、12世紀末に築かれた地下式の窖窯である。
緑風台窯跡には、分焔柱の跡がある。西日本で初めて発見された分焔柱を備えた窯跡であるらしい。
ちなみに、緑風台窯跡には、屋根が残っているように見えるが、これは窯跡が崩壊しないように、発掘後に補強のために設置された屋根である。
焼き物には様々な種別があるが、焼成温度によって仕上がりが異なる。
土器は700~800℃で焼かれたものである。1000℃を超える温度を出そうと思ったら、窖窯が必要となる。1100℃を超えると、粘土成分の一部が結晶化し、焼き締めが起こり、陶質土器と呼ばれる焼き物になる。これが須恵器と呼ばれるものである。
焼成温度が1200℃を超えると、粘土中の長石も溶けて、いわゆる陶器になる。緑風台窯跡の製品は、陶器である。
1350℃を超えると、粘土中の石英も溶けて、磁器となる。磁器と陶器の間の製品を炻器という。
ここで日本の焼き物の歴史をおさらいする。
古くから日本では土器が制作されていたが、5世紀に朝鮮半島から窖窯が伝わり、須恵器が大阪の泉南地方で生産されるようになる。当時は須恵器は貴重品で、生産も有力者に掌握されていた。
6世紀になって、小規模な古墳が次々と築かれるようになると、須恵器は副葬品として大量に生産されるようになる。
しかし、7世紀になって、孝徳天皇が古墳造営を禁止すると、須恵器の生産は急激に衰える。その後は、今年1月14日の当ブログ記事で紹介した、寒風古窯などで細々と生産された。
10世紀になると、中国大陸との私貿易がさかんになり、陶器が日本に流入するようになる。陶器は貴族などに珍重され、須恵器はますます需要が減っていく。
しかし、11~12世紀になると、農民の生活水準も向上してきて、壺、甕、鉢などの実用的な日用雑器への需要が増えてくる。須恵器生産者は、ここに活路を見出し、陶器生産用の窯を築き、陶器を生産するようになる。日本各地に爆発的に陶器の生産地が出来る。
緑風台窯跡も、この時代に築かれたものである。
このような生産地の中で、製品の生産や輸送が勝れていた備前、丹波、越前、信楽、瀬戸、常滑が、中世六古窯と呼ばれ、大規模生産地として発展する。
それ以外の生産地は、13~14世紀には六古窯に押されて廃絶する。
16世紀には、秀吉の朝鮮出兵によって朝鮮半島から連れてこられた陶工が磁器の生産を日本に伝え、鍋島や伊万里、薩摩焼などの磁器生産が行われるようになる。
硬く絵付けがしやすくデザインに優れる磁器は、江戸時代には庶民にも普及する。現代の我々の食卓に並ぶ食器は大半が磁器である。
人にも歴史があるように、道具にも歴史がある。道具の発展の度合いから、人々の生活が見えてくる。
緑風台窯跡からは、完全な形の四耳壺が発掘された。現在は、西脇市郷土資料館に展示されている。
焼き締められ、自然釉のかかった素朴な味わいの四耳壺である。何とも言えない素朴な味わいがある。
現代から見れば、このような渋い器を使用していた当時の庶民は、文化的な暮らしをしていたように見えるが、当時の人々からしたら、単なる日用品だろう。
現代何気なく使っている日用道具も、数百年経てば芸術品と見なされることがあるかも知れない。