大正ロマン館と歴史美術館の少し北にある丹波篠山市黒岡町に、丹波篠山市を代表する神社である春日神社がある。
春日神社の創建は、貞観年間(859~877年)に大和の春日大社から、分霊が今の篠山城跡のある笹山に勧請されたことに始まる。
慶長十四年(1609年)に笹山に篠山城が築かれた際、春日神社は現在地に移転された。
丹波の地には、春日という地名もあり、春日神社も数多くある。この辺りが奈良の春日大社の神領だった証だろう。
畿内の有力神社は、日本各地に神領を持ち、その地にはそれら有力神社の神様が勧請された。
住吉神社や賀茂神社も日本各地にあるが、それらの神社が建つ場所は、昔はそれぞれの神社の神領地だった可能性がある。
参道の突き当りにある随身門の右側には、右大臣菅原道真、左側には左大臣藤原時平の木像が置かれている。
道真は、藤原時平の讒訴によって大宰府に流されたわけだが、その因縁ある2人が随身門の両側にいて、神域を守っているのが面白い。
境内に入って右手に行くと、絵馬殿がある。
絵馬殿には、江戸時代初期に奉納された絵馬が多数掲示されている。
その内、丹波篠山市指定文化財となっているのが、「黒神馬絵馬」と「大森彦七絵馬」である。
黒神馬絵馬は、慶安二年(1649年)に第三代藩主松平忠国が明石へ転封となった際に奉納したものである。
狩野尚信の筆によるものと言われている。雄健、精巧に描かれている。
この馬が絵馬から抜け出して黒岡の畑を荒らしたという伝説があるほど、生き生きと描かれた絵馬である。
次の大森彦七絵馬は、貞享四年(1687年)に松平家の臣、塀和佐内景広が奉納したものである。
この絵は、足利尊氏幕下の大森彦七が、湊川の合戦で南朝の楠木正成に詰腹を切らせた報いとして、南朝諸将の亡霊に悩まされたという「太平記」巻二十三の故事に基づいて描かれたものである。
その他に、貞享三年(1686年)に松平勘右衛門が奉納した、木曽義仲の妻・巴御前の絵馬も名品であった。
境内には、能楽愛好者だった第十三代篠山藩主青山忠良が、文久元年(1861年)に春日神社に奉納した春日神社能舞台がある。
私が訪れた時は、能舞台は板で囲われていて、内部を窺うことが出来なかった。
この能舞台は、藩主の意向で至れり尽くせりの設備が整えられた。特に床板を踏む音を反響させるため、床下に7個の丹波焼の大甕を伏せているが、その伏せ方の完全さは全国屈指のものであるらしい。
完成時には、箱根以西でこれほど立派な能舞台はないと言われていた。
現在もこの舞台では、元旦の翁舞から始まり、春には篠山春日能・狂言が演じられる。
さて、ようやく社殿に向かう。
春日神社の御祭神は、春日大社と同じく、健甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋命(あめのこやねのみこと)、姫大神(ひめのおおかみ)の四柱の神様である。
本殿は、春日神社でありながら、春日造ではない。
皇室の藩屏たる藤原氏の氏神の社だけあって、どことなく品があって凛としている。
境内には岩山があり、頂まで階段が続いている。
その階段脇には、牡鹿と牝鹿の銅像が建つ。
これを見て、一瞬だけ奈良公園に来た気分になった。
さて岩山の上に何があるか気になったので登ってみると、小さなお社があった。
小さなお社は愛宕社であった。この愛宕社は、京都愛宕山の山頂に祀られる愛宕神社から祭神を勧請したものだろう。
愛宕山は古くから信仰された山で、かつては修験道の修行の山であった。
愛宕山には、明治まで本地仏の勝軍地蔵が祀られ、その仮の姿とされる愛宕権現(伊弉冉尊)も祀られていた。
この岩山も、篠山の小さな愛宕山として信仰されていたのだろう。山頂に立派な岩のある日本の山は、大抵はかつて修験道の聖地だったところである。
春日明神や愛宕権現だけでなく、日本の仏や神々は、日本のあちこちに現れ、祀られている。その多くは、山頂や山の麓に祀られている。
日本の山は、神仏が宿る依代なのだろう。