鳥取県八頭郡若桜町の若桜駅から、八頭郡八頭町の郡家(こおげ)駅までを通る若桜鉄道は、かつては国鉄の路線だったが、国鉄の民営化に伴い私鉄となった。
若桜鉄道が開通したのは昭和5年だが、平成20年には駅舎や鉄橋など、沿線全体の施設が国登録有形文化財となった。
私は鉄道にあまり詳しくないが、沿線全体が文化財となった路線というものが他にあるだろうか。
若桜駅は、若桜鉄道の東の端の駅で、勿論この駅も国登録有形文化財である。
終点となる駅なので、転車台や車庫がある。
終点の若桜駅まできた車両は、車庫に入るか、転車台で方向転換し、再び走り出すのだろう。
駅構内の線路上には、ディーゼル機関車や、蒸気機関車が展示されている。
私は自動車で史跡巡りをしている。今後も史跡巡りでは、愛車のスイフトスポーツ以外の移動手段は使わないつもりだが、鉄道の旅というものも、旅情があっていいものだと感じる。
若桜駅から南西に歩くと、寺通りと称するお寺が並ぶ細い通りがある。
この寺通り沿いを南に歩いて行くと、まず見えるのが日蓮宗の寺院、白毫山蓮教寺である。
蓮教寺は、文明九年(1477年)に日蓮宗総本山久遠寺の僧、円教院日意が開創した寺院で、鬼ヶ城主の矢部氏の帰依を受け、溝見村に大伽藍を建立したのが始まりという。
天正年間の秀吉の因幡攻めに伴い伽藍は焼失したが、その後当地に本堂と妙見堂が建立された。
下って明治7年と明治18年の若桜大火で再度寺院は焼失したが、その後再び本堂と妙見堂が再建された。
蓮教寺は名僧を輩出した寺で、五世善学院日鏡、九世一如院日重は、本山久遠寺の十四世、二十世法主となった。
蓮教寺から南に歩くと、土蔵が連なった一角に至る。
明治18年に大火があったのならば、若桜の古い街並みの大半も、それ以降に再建されたものということになる。
この街並みが、末永く伝承されることを望む。
さて、土蔵群を過ぎると、次にあるのが浄土宗の寺院、不遠山西方寺である。
西方寺は、天文年中(1532~1554年)には寿命院二尊寺と称し、釈迦、阿弥陀の二尊を安置し、城主矢部氏の祈念所となっていた。天台、真言、律、浄土を兼学する寺だったという。
開創は、俊空幸善上人であるが、戦乱により寺は一時荒廃した。
秀吉の天下統一後に若桜城主となった木下重堅の下、二世空伯李珍上人により寺は再建され、不遠山西方寺と改称した。
木下重堅は、関ケ原の戦いでは西軍に与した。木下勢は大坂に出兵したが、関ヶ原での西軍の敗北の報を受け、大坂天王寺に撤退した。重堅は、天王寺で東軍に追いつめられて自刃した。
重堅の家臣たちにより、重堅の遺髪、遺品が西方寺に葬られた。
木下重堅の遺髪等を収めた五輪塔が西方寺境内に残っている。
重堅の周囲の五輪塔は、主君と共に自刃した家臣たちのものだろうか。
西方寺も明治18年の大火で一度焼失したが、その後明治33年に本堂が再建された。見学出来なかったが、西方寺庭園は、鳥取県指定名勝であるらしい。
若桜の町は、駿河出身の武家、矢部氏が鎌倉時代に領主として着任し、若桜鬼ヶ城を築いて以降、矢部氏と共に発展してきた。