久松山真教寺 荒木神社 清光山本浄寺

 一行寺に隣接して、浄土宗の寺院、久松山真教寺がある。

 寺伝によれば、天文十四年(1545年)に布施天神山城主山名誠通(のぶみち)が、久松山に築城するに際し、鎮守として建立したという。

久松山真教寺

 又この寺院は、吉川経家の菩提所でもある。

境内

本堂正面

 境内には、鳥取市保存樹木に指定された黒松がある。

 明治30年に植えられた松で、樹勢なお盛んである。

黒松

 盆栽の松のように、よく整備されている。

 また、境内の鉢には、蓮の花が咲いていた。夏が近づいている。

蓮の花

 真教寺の東側には、墓地と塔頭円相院があったが、今は移転して、跡地が真教寺公園という公園になっている。

真教寺公園

 公園には、入場無料の動物園がある。

 真教寺の参拝を終えて、若桜街道に戻ると、麒麟獅子の舞が行われている。鳥取市街の氏神である聖神社の祭礼行事の日であるらしい。

麒麟獅子

 因幡から但馬西部にかけて、麒麟獅子による獅子舞が行われているが、実際の獅子舞を目にすることが出来て良かった。

 若桜街道新町入口交差点と川端入口交差点の中間に、建物の間に挟まった狭い路地の入口がある。この道は北西に向かって伸びていて、智頭街道まで続いている。

江戸時代の排水溝の跡

 この細い道は、江戸時代に町家裏を流れた排水溝の跡である。低湿地であった場所に城下町を築いた痕跡である。

 江戸時代に、ここに排水溝があって、両側に町家が並んでいるところを想像した。

 さて、ここから南に歩くと、鳥取市元町に黒住教鳥取大教会所がある。

黒住教

 黒住教鳥取大教会所の一角に、伊賀越の仇討ちで活躍した剣士荒木又右衛門を祀った荒木神社がある。

荒木神社

 大和郡山藩剣術師範だった荒木又右衛門は、妻の弟だった岡山藩士渡辺数馬の仇討ちの助太刀をした。

 渡辺数馬の仇討ちが成功するまでの間に、当時の岡山藩主池田忠継は死去し、忠継の子の光仲は国替えで鳥取藩主になっていた。

荒木神社本殿

 仇討ちを成功させた渡辺数馬や荒木又右衛門は、鳥取藩に召し抱えられることになった。

 又右衛門は、若桜橋北詰のこの地に屋敷を拝領したが、鳥取に来て僅か17日後に40歳の若さで急死した。

 荒木神社は、又右衛門が屋敷内に祀った社だが、又右衛門の没後は、又右衛門を祀って荒木神社と号した。

割れた手水鉢

 本殿の脇には、割れた石造の手水鉢がある。又右衛門が生前使用した手水鉢だそうだ。

 昭和27年の鳥取大火で、この手水鉢も猛火で二つに割れ、片方は行方知れずになったという。

 荒木又右衛門の屋敷地は、明治の初め黒住教に寄進された。今では黒住教荒木神社を守っている。

 荒木神社のすぐ南側に、若桜橋がある。

若桜

 この橋は、昭和27年の鳥取大火後に架け替えられたが、橋の四隅には、大火からの復興を記念して、地元の彫刻家山本兼文が造ったモニュメントが据え付けてある。

 若桜橋を渡って南下し、東に行き、鳥取市弥生町にある日蓮宗の寺院、清光山本浄寺に赴いた。

本浄寺山門

 この寺も、寛永九年(1632年)の池田光仲の国替えに伴って、岡山から鳥取に移った。

 開基は、池田氏重臣加藤氏だという。

本堂

 本堂の前には、雖井蛙(せいあ)流剣術の祖・深尾角馬の墓がある。

深尾角馬の墓

 この寺の本堂は新しい鉄筋コンクリート製であった。

 恐らく鳥取大火で旧本堂は燃えてしまったのだろう。

 日本の町の多くは、地震、洪水、火災、空襲といった災禍に見舞われてきた。鳥取の町の至る所には、災害から復興した跡が残されている。

 そんな町の逞しさには、勇気づけられるものだ。