八頭町東部の史跡

 若桜町を後にして、鳥取方面に走ると、八頭(やづ)郡八頭町に入る。

 八頭町用呂にあるのが、国指定重要文化財の矢部家住宅である。

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矢部家住宅

 矢部氏は、元々駿河武家であったが、鎌倉時代初頭の梶原景時の変での功績で、矢部暉種(あきたね)が因幡国20余ヵ村を拝領した。

 矢部氏は、若桜鬼ヶ城を築き、以後戦国時代まで若桜の領主として君臨した。

 しかし、天正年間に尼子勝久若桜に侵攻し、鬼ヶ城は陥落した。その際、矢部氏は滅亡したとされるが、生き残りの子孫が帰農し、江戸時代には代々庄屋を務める家柄になったという。

 矢部家住宅は、その矢部氏が帰農して五代目のころの17世紀初頭に建てられたと伝えられる。

 主屋は、部材や建築手法から、17世紀中ごろから後期に建てられたものと見られるが、その後幾度か改変を受けたそうだ。

 矢部家住宅主屋は、昭和52年の改修工事で、江戸時代初期から中期の姿に復元された。

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矢部家住宅の門

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 それにしても、矢部家住宅の門は、お城の門のようだ。

 矢部家住宅は、一般公開していないので、塀の外から写真を撮るしかない。主屋は、桁行10間半、梁間5間の入母屋造で、巨大な茅葺の建物だ。

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矢部家住宅主屋

 外からでは主屋の全貌が掴み切れないので、案内板に掲示していた写真を載せる。

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主屋

 矢部家のように、鎌倉時代から続く武家が、地元の国人となり、戦国時代に勝ち残れずに没落して帰農した例は日本各地にある。

 播磨の赤松家も、戦国時代末期に、最後の生き残りが帰農して、曽谷と姓を変えて今に至っている。

 私も今年になって自分のご先祖を調べる機会があったが、かくいう私の祖先も、阿波の国人で、阿波の戦国大名三好氏に仕えていたが、土佐の長曾我部氏に中富川の合戦で敗れてから帰農して、江戸時代に阿波から淡路に渡って庄屋をしていたようだ。明治になって、その家から飛び出た曽祖父が、西宮に辿り着いて八百屋を始めた。私の父は、その八百屋で生まれた。

 江戸時代を生き残り、藩主として維新を迎え、明治に爵位を得た武家よりも、戦国時代に没落し、帰農した武家の方にロマンを感じる。

 八頭町徳丸の実相寺は、明治15年に貫徹社の井上桐作を頭領とする小作料軽減運動で、小作人数百名が集まった寺だという。

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実相寺

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 地方の一揆や反乱の集合場所として、寺院が利用されるのは、よくあることのようだ。

 八頭町東には、元文一揆の首謀者、勘右衛門の碑がある。

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勘右衛門の碑

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 松田勘右衛門は、八頭郡東村の庄屋であった。

 元文四年(1739年)、蝗害による不作で因幡伯耆、但馬、美作の農民は苦しんでいた。

 鳥取藩八頭郡郡代米村広次は、不作に苦しむ領内農民に重税を課した。庄屋である勘右衛門は、農民から直接徴税する立場であったが、農民の苦境を見るに堪えかねて、藩に年貢の軽減を陳情したが取り合ってもらえなかった。

 元文四年2月、勘右衛門は一揆を組織し、因幡伯耆の約5万人の農民と共に鳥取城に押寄せ、藩に直接年貢の軽減、米村の罷免、農政の改善を求めた。

 鳥取藩は、一揆勢の要求を飲んだように見せかけ、一揆勢が解散すると、直ちに勘右衛門を捕らえ、処刑して東村で晒し首にした。

 昭和40年、地元民が勘右衛門を義民として顕彰する石碑を建てた。

 元文一揆は、鳥取藩政史上最大の事件とされているが、この一揆の特徴は、その規模が大きいことである。

 今年2月2日の当ブログ「日本原」の記事で、美作国日本原の元文一揆義民慰霊之碑を紹介したが、美作でも同時期に一揆が発生していたのだ。美作の一揆勢は、因幡伯耆一揆勢と連絡を取り合って、同時に蜂起したものであろう。

 これだけ広範囲で多人数の一揆を計画した勘右衛門は、只者ではなかったろう。勘右衛門は幼少時から地元では聡明な子供として知られていたようだ。

 勘右衛門の碑の近くには、勘右衛門が築いた勘右衛門土手がある。

 勘右衛門が、河川の氾濫を防ぐため、巨石で土手を築き、藤かずらを植えて地盤を強化したものだそうだ。

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勘右衛門土手の跡

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 庄屋は、農村内では地位の高い家柄だが、藩の手先という面と、農村の代表という面と、二律背反する要素を持っており、農民が不作で苦しんでいる時は、さぞ辛い立場だったことだろう。

 八頭町岩渕にある黄檗宗の寺院、長源寺の本堂前には、正平八年(1353年)銘の宝篋印塔がある。

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長源寺本堂

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宝篋印塔

 宝篋印塔は、鎌倉時代から造られ始めたそうだが、鎌倉時代の宝篋印塔には、未だお目にかかったことがない。

 今回は、因幡に初めて足を踏み入れたが、因幡の史跡も巡り応えがありそうだ。次回因幡を訪れるのが楽しみである。