宝物館を出て石段を登ると、ようやく唐門に辿り着く。
須磨寺は、かつては7堂12坊を有する大寺であったが、戦乱の世を経て衰退し、幕末には、本堂、大師堂、仁王門しか残っていなかった。
明治中期以降境内が整備され、今の伽藍が整った。この唐門も、明治以降の再建だろう。
唐門を潜ると正面に見えるのが本堂である。
本堂は、慶長七年(1602年)に、豊臣秀頼が再建したものらしい。
本堂内部には、仏像を安置する宮殿(くうでん)と仏壇がある。外側の本堂よりも古く、応安元年(1368年)の作である。宮殿と仏壇は、共に国指定重要文化財である。
宮殿に祀られている御本尊・聖観世音菩薩坐像は、現在の神戸市兵庫区の和田岬沖の海中から引き揚げられたとされる。元々は会下山の北峯寺に祀られていたが、仁和二年(886年)に御本尊がこの地に移され、須磨寺が開創された。
御本尊と両脇侍像の写真が、亜細亜万神殿に掲げられていた。優美で静かな智慧を感じさせる仏像だ。
本堂には、この他に、鎌倉時代の作で、国指定重要文化財となっている木造十一面観音立像が安置されている。
本堂の東隣には、明治36年(1903年)再建の護摩堂がある。
護摩堂は、護摩行を行うお堂である。内部には、護摩壇の奥に不動明王を中心とした5体の仏像が安置されている。
中央の不動明王は、大日如来の憤怒の面の化身と言われている。不動明王は、五大明王の中心となる明王である。
不動明王は、八大童子という従者を引き連れているとされるが、この中で不動明王の両脇侍として、掛軸等によく描かれているのが、矜羯羅(こんがら)童子と制吒迦(せいたか)童子である。
不動明王の向かって右側には、合掌している白い肌の矜羯羅童子と役小角こと神変大菩薩が祀られている。
不動明王の向かって左側には、赤色の肌をした制吒迦(せいたか)童子と、猪に乗って矢をつがえた仏法の守護神・摩利支天が祀られている。
像はどれも色彩鮮やかで、新しいものだが、密教本来の絢爛たる世界を見せてくれる。
護摩堂の東側には、南北朝時代の作で、兵庫県指定重要有形文化財となっている石造十三重塔がある。
ほとんど風化していない、均整の取れた美しい姿の十三重塔だ。
その南側には、二代目の弁慶の鐘を掛けた鐘楼がある。実際に弁慶が使ったとされる初代弁慶の鐘は、昨日紹介したように、宝物館に収蔵展示されている。
この弘法大師像は、「須磨のお大師さん」と呼ばれ、毎月20・21日の縁日には、参拝客で賑わうという。お大師さんは今も民衆に慕われている。
大師堂の隣には、源義経が平敦盛の首実験をした時に腰かけた、「義経腰掛の松」がある。
この松の前に、敦盛の首を洗ったという、「敦盛首洗池」がある。
ここで本当に敦盛の首が洗われたかは分からないが、今はただ鯉が泳ぎ、蓮が静かに咲いているのみである。
寺の境内で首実験を行うことには、違和感を覚えるが、首実験と同時に死者を弔う意味もあったのか。
熊谷直実も、義経の横に侍って、固唾をのんで自分が討ち取った若武者の首実験を眺めたことだろう。
その隣には、経木供養所である八角堂がある。
八角堂のある場所から南に下がると、神功皇后釣竿竹が繁茂している。
神功皇后が三韓征伐からの帰途、肥前国松浦川で鮎釣りをした。皇后がその時に使った竹竿をここに埋めた所、繁茂したものだという。神功皇后の伝説地の一つだ。
ここから南に行くと、立派な唐破風を持った書院がある。
重厚感ある建物だ。書院の戸が開け放たれ、広い座敷が見えた。
書院の隣の庫裏は、僧侶が生活する場である。
庫裏の唐破風の入口は閉じられていた。この唐破風の入口の彫刻が立派であった。
須磨寺は、長い間源平合戦の戦死者を弔い続けた寺である。しかし、この寺に暗さはなく、変な言い方かも知れないが、溌剌とした明るい寺である。源平合戦の戦死者たちも成仏して、今は笑って世の中を見守っているように思う。