西方寺を出て寺通りを更に南に歩く。
浄土宗の寺院、寿覚院がある。
寿覚院の元となる寺は、浅井山中腹の寺谷という地にあったらしいが、慶長九年(1604年)に、若桜鬼ヶ城主・山崎家盛の妻が帰依し、寺を若桜宿古寺ノ元に移した。寿覚院は、家盛の妻が、自ら開基したとされる。寺の名は、家盛の祖母の法名から来ているそうだ。
天明年間(1781~1788年)の洪水により、寺は流されてしまったが、享和二年(1802年)に現在地に再建された。
明治7年と明治18年の若桜大火で寿覚院は焼失したが、明治30年に再建された。
今まで寺通り沿いの寺を巡ったが、若桜城主だった矢部氏、木下氏、山崎氏それぞれにゆかりのある寺が通りに並んでいることになる。
寺通りから離れ、上町に行くと、西方寺澄円庵(ちょうえんあん)がある。
澄円庵内には、阿弥陀如来像が数多く祀られ、その前に般若心経を書いた布が下がっている。
この澄円庵の庭には、芭蕉翁の碑がある。
この碑には、「百年の 気色越庭乃 落葉哉(百年の 気色を庭の 落葉かな) 文化九年(1813年)申六月 日」とうっすら刻まれている。ほとんど文字が判別できないが、左上に「蕉翁」と彫られているのは分かる。
この句碑は、若桜を訪れた蕉風の俳人・成田蒼虬(そうきゅう)が建立したものと言われている。
文学碑と言えば、私は明治以降に建てられ始めたものと認識していたが、史跡巡りを続けているうちに、江戸時代に建てられた芭蕉の句碑が多く現存しているのが分かった。ここもその一つだ。
江戸時代後期には、既に俳人たちにとって芭蕉は偉大な先達として認識されていたのだろう。
さて、若桜のメインの通りとなる若桜往来に行ってみる。若桜の町の特徴は、冬季の降雪の下でも歩けるように工夫された「カリヤ」があることである。
カリヤとは、町家の一階の軒の庇が張り出して、その下に雪が積もらないようにしたもので、今でいうアーケードのようなものである。
昔の若桜の町は、冬は通りが積雪のために埋まってしまったことだろう。今はカリヤを有する建物は少なくなったが、昔は各家のカリヤがつながっていて、雪が積もらないカリヤの下を通れば、冬でも町中を行き来できるようになっていたのだろう。
私は幼少時を雪国で過ごしたので、こういう積雪を連想させるものを見ると、懐かしい気持になる。
つらい冬を越そうとする雪国の人々の知恵は、不思議と愛しいものである。