岡山県の旧邑久郡には、約130基の須恵器の古窯跡群がある。邑久古窯跡群という。6~12世紀の窯跡の遺跡である。当時の須恵器の生産地が北上し、伊部の地で備前焼に発展した。
岡山県瀬戸内市牛窓町長浜には、邑久古窯跡群を代表する窯跡である国指定史跡・寒風(さぶかぜ)古窯跡群がある。
寒風古窯跡群は、邑久古窯跡群の最南端に位置する。ここでは、7世紀前半から8世紀初頭までの約100年間、須恵器が生産された。概ね飛鳥白鳳時代と重なる。
生産された須恵器は、杯、高杯、平瓶、長頸壺、甕、鉢の他に、陶棺、鴟尾、硯などもあった。
鴟尾は寺院や官衙の屋根の上に載せられたものと思われる。当時、文房具である硯を使用したのは、役所くらいしかなかっただろう。官品を数多く生産する窯だったようだ。
寒風古窯跡群は、5つの窯跡と、1つの古墳などで構成されている。
寒風古窯跡群を発見したのは、明治29年(1896年)に当時の邑久郡牛窓町長浜に生まれた時実和一(号黙水)である。
時実黙水は、昭和2年10月25日、近所の正八幡宮の参拝の帰りに、かつて寒風古窯跡群3号窯のあった場所で、ツマミ付き蓋を拾った。時実が考古学人生に一歩を踏み出した瞬間だった。
時実は、その後寒風古窯跡群を中心に発掘と考古研究に打ち込み、郷土の文化財の調査と保護に尽力した。
寒風古窯跡群の中には、須恵器生産を行う工人をまとめた有力者の墓と思われる、寒風古墳がある。
平成17年の発掘調査により、寒風古墳には、甕の破片を敷いた須恵器床という特殊な床を持つ石室があったことが判明した。
古墳は、今は地表の下にあって、形は判然としない。
寒風古墳の近くの斜面に、1号窯跡がある。1号窯跡には3つの窯跡がある。
写真には説明板が3つ立っているが、手前から1-Ⅲ窯跡、1-Ⅱ窯跡、1-Ⅰ窯跡である。1-Ⅲ窯跡は7世紀前半、1-Ⅱ窯跡は7世紀中期、1-Ⅰ窯跡は7世紀後半に使用されていた窯の跡である。
どれも全長約10メートルほどの穴窯だが、この中で1-Ⅰ窯跡が最も大きく、寺院の飾り瓦の鴟尾や陶棺などが焼かれていたそうだ。
7世紀後半と言えば、日本各地に寺院が建立されていた時代だが、そんな寺院の瓦がこの地で造られていたのだろう。
さて、窯の下部にある焚口からは、焼成に失敗した須恵器や、炭や灰、焼け落ちた窯の壁などが吐き出される。それらの廃棄物は、焚口の下の斜面に捨てられていく。そこを灰原という。
1号窯跡の下の斜面は、灰原の跡である。
灰原跡は、発掘の結果、最大で約2メートルの深さまで廃棄物が堆積していることが分かった。
灰原跡の地表には、今でも須恵器の破片や窯の壁の破片が散乱している。
7世紀の遺物が、未だに地表に転がっているのを見て、胸が高鳴った。こういったものを見つけて、考古学の世界に没入していった時実黙水の気持ちが分かる気がする。
2号窯は、7世紀半ばの穴窯跡である。
この周囲からは、陶棺、硯や、水の祭祀に使用された陶馬などが見つかっている。7世紀の日本を支えた最先端の工芸品を作る場所であった。
この地から良港牛窓までは近い。ここで生産された須恵器は、船で畿内にも運ばれたことだろう。
寒風古窯跡群の隣には、寒風陶芸会館がある。私が訪れたのは月曜日で休館日だった。
寒風陶芸会館は、鴟尾を載せた瓦ぶきの建物である。
月曜日は、大抵の公立資料館は休館日である。今回月曜日に備前の史跡巡りをしたが、どの資料館も休館日であった。月曜日に史跡巡りをするのはやめた方がいいと分かった。
寒風陶芸会館には、寒風古窯跡群からの出土品を展示しているという。やはり見たかった。それ以外にも、ここでは陶芸教室を開催している。
この辺りには、多くの備前焼作家が窯を構えている。備前国は、7世紀から現在まで、陶芸の盛んな地域である。
寒風陶芸会館の裏庭に、時実黙水の備前焼の像があった。
子供のように嬉しそうな時実の表情を捉えている。自分が地面から掘り出したものから、その時代の社会や経済の様子が分かってくる。これは確かに面白いことだろう。
時実が陶片を拾った昭和2年は、彼が31歳の年だが、時実はこの時になって、一生楽しめる道楽を見つけたと言えるのではないか。