やくの玄武岩公園から東進し、福知山市夜久野町高内の集落に入る。
丘の上に福知山市立夜久野学園の小学校がある。夜久野学園は、公立の小中一貫校である。
この小学校の校庭に長者森古墳という円墳がある。
長者森古墳は、直径約23メートル、全高約6メートルの円墳である。この古墳は、明治37年に旧夜久野小学校を建設する際に発掘された。
6世紀後半に築造された古墳で、埋葬施設は、板状の玄武岩を積み上げて作った全長13メートル両袖式横穴式石室である。中々緻密な石組だ。
それにしても、小学校の校庭に古墳が丸々残っているのは珍しい。学校建設の際に発掘された古墳は、大抵発掘が済むと破壊されて均されてしまう。
明治時代から、地元の小学生たちはこの古墳の上に登って遊んだことだろう。卒業生には忘れられない古墳であるに違いない。
私が訪れた時は、大晦日で休校日だったが、勝手に校庭に侵入するわけにも行かず、正門の外側から古墳を眺めた。そのため、石室の入口を見ることも出来なかった。
そう、校庭の片隅に古墳があるのではなく、正門のすぐ前に古墳があるのである。地元の人にとっては、これこそ故郷の風景だろう。
長者森古墳からは、須恵器や鉄刀、耳輪などが発掘されている。国造(くにのみやっこ)級の、この地域の有力者を埋葬した古墳だろう。
さて、高内集落の東側には、夜久野学園の中学校がある。中学校の周辺は、高内鎌谷窯跡群が発掘された場所である。
中学校から、牧川を挟んだ対岸の山裾には、30基以上の末窯跡群がある。
これらの窯跡では、古代に須恵器が生産された。須恵器は古代の官衙や寺社で使われたハイテク製品であるが、中世には使われなくなった。商品にも盛衰があるものだ。
高内集落から東進し、夜久野町日置(へき)にある高倉神社を訪れた。
元旦に備えてか、社頭には国旗が掲げられていた。見ると晴れやかな気分になる。
本殿は、覆屋に覆われている。
一間社隅木入春日造、杮葺きの本殿である。棟札から、寛文四年(1664年)の建立と分かっている。
本殿の前には、お酒とお餅が供えられている。新しい年を神様と共に迎える準備だろう。
境内の摂社のひとつひとつにも、お餅が供えられていた。
こうして見ると、日本の神様と日本の農業には、密接な関係があるように感じる。
土地からの収穫物は、自然の恵みがないとできない。農民は、豊作を願って土地の神様を手厚く祀るようになる。そうして得られた収穫物を土地の神様に供えて、共に食する。
新しい年になれば、新しい収穫物が出来上がる。新しい年を神様と共に迎えて、新しい年の豊作を願う。暦の巡りと神社の祭りが一体のものとなっている。
かつての日本人は、7割が農業に携わっていたが、今は農業従事者は僅かである。日本人が農業から離れると同時に、神様と共に生きているという実感は減ったのかも知れない。
高倉神社の南側の牧川沿いには、銅剣型石剣が発掘された日置遺跡がある。弥生時代の遺跡である。
弥生時代には、集落に住む人のほぼ全員が農業に従事していたことだろう。
弥生時代には、神様には名前はなく、単に日の神、山の神、川の神、火の神などが祀られていたことだろう。
昔から日本人にとって、神社の祭神の名は気にすることではなかった。土地に手を合わせる、それが日本人の心に宿る信仰心である。