寒風古窯跡群のある山上から下りて、瀬戸内市邑久町本庄にある横尾山静円寺(じょうえんじ)を訪れる。真言宗古義派の寺院である。
この寺は、天平二年(730年)に行基菩薩が開基したと伝えられる。備前では、まず7世紀後半に官寺が出来て、奈良時代前半に行基菩薩が寺院を開き、奈良時代中期になって報恩大師が備前四十八寺を開いたという順序で仏教が浸透していったようだ。その後、ひょっとしたら弘法大師空海が備前を訪れたのかも知れない。
説明板がないので、創建以後の静円寺の来歴はよくわからない。元々は、現在地の西側にある山上に寺院があったようだ。
山門から境内に入ると、正面に本堂などの三つのお堂が並んでいるのが目に映る。
私以外に参拝客はいなかった。寺域は静けさに包まれていた。
本堂には棟札があり、「天正七年(1579年)十一月三日上棟」と記載しているらしい。今から440年前に再建された建物だ。
本堂は江戸時代中期に、山上から現在地に移築された。桁行五間、梁間五間、単層、入母屋造り、本瓦葺きの建物である。柱は欅の総円柱である。岡山県指定重要文化財となっている。
彩色はされていない。木と瓦だけで組み上げられた建物というものは、簡素な美しさを持っている。
本堂の内陣には、入母屋造り、宮殿形の厨子が設けられている。
厨子の手前には、禅宗様の須弥壇が設けられている。寺院には、外観は地味だが内部は極彩色というものが多い。静円寺もそうである。
本堂隣の開山堂には、弘法大師像が祀られていた。
ここでも弘法大師に出会うことができた。高野山奥の院御廟での弘法大師の祈りは、現在も続いている。
静円寺多宝塔は、元禄三年(1690年)に再建された。高さ約12メートルと小ぶりながら、バランスの取れた閑雅な美しさを持っている塔である。私が史跡巡りで訪れた3つ目の多宝塔である。
朱色に輝く高野山の根本大塔も美しいが、木肌をそのまま見せている多宝塔もいいものである。これも岡山県指定重要文化財である。
静円寺から北に2キロメートルほど行くと、大正ロマンの画家、竹久夢二の生家がある。茅葺屋根の家である。
竹久夢二生家は、築約250年とされる民家である。竹久家は、この地で農業と酒の取次販売を行っていたとされる。
竹久夢二生家は、岡山後楽園の近くにある夢二郷土美術館の分館となっている。「童子」などの夢二の肉筆画や資料を展示している。夢二が少年時代を過ごした部屋も残されている。残念ながら私が訪れた月曜日は休館日だった。
夢二は、明治17年(1884年)にこの家に生まれた。16歳まで生家で過ごしたが、父
が商売を畳んで、九州の八幡製鉄所で働くこととなったため、一家で八幡に転居した。
夢二も製鉄所で暫く働いたが、17歳の時に家出して上京し、画家としての道を歩み始めた。
その後の夢二の抒情画家、詩人としての活躍は著名なので、ここでは触れない。
竹久夢二生家の西側には、夢二が40歳になった大正13年(1924年)に、自ら設計して現東京都世田谷区松原に建てた、アトリエ兼住居、少年山荘(山帰来荘)が復元されている。
本物の少年山荘は、夢二没後の昭和9年(1934年)には取り壊されてしまった。
昭和54年に、夢二の次男である竹久不二彦氏らの記憶と考証により、この地に復元された。
瀟洒な洋館である。私も昔からこんな家に住みたいという夢がある。
洋館でありながら、下部には日本の町家に特徴的な、ナマコ壁を巡らしているのが面白い。(当ブログ、令和元年11月21日の「小原宿」の記事参照)
少年山荘の名は、夢二が中国の詩人唐庚の「山静かにして太古に似たり、日の長きこと小年の如し」という詩から取ったという。
少年の日のように、長い一日をこのアトリエで過ごしたいという意味で名付けたそうだ。
夢二は17歳で家を飛び出して画家になったが、16歳までの生家での暮らしが、忘れられないほど温かい記憶に彩られていたのではなかったかと思う。