鳥取市国府町岡益の北側にある国府町玉鉾集落の西側の田んぼから、昭和38年の圃場整備中に、廃寺の瓦、礎石、鴟尾が発掘された。
礎石の配置や出土遺物から、白鳳時代の寺院跡であることが分かった。等ヶ坪廃寺跡と呼ばれている。
現在は廃寺跡には何の痕跡もないが、玉鉾集落に架かる玉鉾橋の西詰に、等ヶ坪廃寺跡の礎石などが置かれている。
また玉鉾橋の端には、鴟尾のモニュメントが置かれている。
岡益廃寺と等ヶ坪廃寺は、7世紀後半という同時代に、ほとんど隣同士という距離で並立していたことになる。
これらの寺を国家が造っていたら、こんなに近くには造らなかっただろう。
白鳳時代の寺院建立は、国家による古墳造営禁止と同時にブームになった。
白鳳時代に各地に建てられた寺院は、その地の豪族が古墳の代わりに先祖を弔うために建てたものだろう。いわば私的な寺である。当時の寺院が後にほとんど廃絶されたのは、公的な性格がなかったからではないか。
ここから袋川に沿って東に進む。国府町神垣(こうがけ)の集落に、神垣1号墳という古墳がある。
神垣ふるさと館の駐車場に車をとめ、集落の中央を通る東西道を東に歩く。すると、石垣のある民家に至る。
上の写真の石垣の間を上がり、右奥を見ると、古い物置のような建物がある。その建物の手前に神垣1号墳がある。
上の写真の、左側に石垣が積まれた土盛りが、神垣1号墳である。南側に石室の開口部がある。
石室入口の上には、かなり大きな石が載っている。もともとは本格的な古墳だったのだろうが、時と共に、徐々に古墳の姿が失われていったのだろう。
石室の中には、綺麗な形をした石棺の身が置かれている。
あまりに綺麗な形をしているので、近年に造られたものかと思ったが、後で紹介する新井(にい)石舟古墳の石棺の身とよく似ているので、やはり古代に造られたものだろう。凝灰岩をくり抜いて造られたものだと思われる。
さて、神垣の集落の東側にある新井の集落に行く。集落の入口にある新井地区ふれあい広場に車をとめ、集落の最奥にある新井石舟古墳を目指して歩いた。
新井石舟古墳は、集落奥の、川にかかる小さな橋の向こう側の森林内にある。
森林内に入って暫く歩くと、小さなお堂が見えてくる。その横に石室開口部を見せる新井石舟古墳がある。
古墳隣のお堂には、古墳の説明板が掲げられている。
新井石舟古墳は、6世紀後半から7世紀前半に築かれた、直径約10メートルの円墳である。
横穴式石室の玄室に、凝灰岩から造られた家形石棺が置かれている。石棺に蓋と身があるが、2枚あった蓋石の1つは所在不明であるという。
石室入口は狭く、体を入れることが出来ない狭さである。腕を伸ばしてカメラを石室内に入れ、フラッシュを焚いて撮影した。
石室奥に、半ば土に埋もれた家形石棺があった。石棺の身は、先ほど見た神垣1号墳の身とよく似ている。
実は、新井石舟古墳の少し南側の山の斜面にも、崩れた石室が露出した古墳がある。
こちらの古墳には、石棺はない。石舟古墳よりは小規模だ。
新井の集落には、新井石舟の館という展示施設がある。
私が訪れた日は閉館していたが、表側に石舟古墳の石室と家形石棺の模型が展示してあった。
鳥取市国府町は、かつて因幡の国府があった地域である。古代は因幡の先進地域だったことだろう。
国府が置かれたのは8世紀前半だが、国府跡周辺に、6世紀後半から7世紀後半に至るまでの古墳や廃寺跡が点在する。
その中には、岡益の石堂や梶山古墳、今日紹介した神垣1号墳や新井石舟古墳のような、独特の石造遺物がある。
飛鳥白鳳時代の日本は、国際色豊かな移民国家だったと思われる。国府町には、そんな時代の痕跡が豊富に残されている。時代の息吹を感じることが出来る。