教信寺 古大内遺跡

 古代には、日本各地に駅(うまや)という馬を常備した拠点があった。

 当時の最速の連絡手段は馬であった。都から地方に何かを連絡するときは、使者は駅にある馬を乗り継いで連絡先へ向かった。

 駅には、宿泊施設があって、外国の公使が宿泊したり、旅人が宿泊したりした。今の加古川の地には、賀古の駅があったとされている。大駅には20~30頭の馬が常備されていたが、賀古の駅には40頭もの馬が常備されていたそうだ。賀古の駅は、当時日本最大規模の駅だった。

 兵庫県加古川市野口町野口にある念仏山教信寺は、賀古の駅のすぐ北側に建てられたとされる寺院である。

 天台宗の寺院であるが、念仏で有名な寺である。

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教信寺山門

 沙弥教信は、天応元年(781年)に奈良で生まれた。興福寺で学んだが、16歳で同寺を出て諸国を行脚し、40年余りの後、賀古の駅の近くに辿り着き、庵を結んだ。

 教信はそこで、ひたすら南無阿弥陀仏を唱えながら、お百姓の手伝いをしたり、草鞋を作って貧しい人に与えたり、旅をするお年寄りの荷物を運んだりして、大勢の人の手助けをした。

 そのため、教信は、「荷送り上人」「阿弥陀丸」と呼ばれた。

 貞観八年(866年)、死期を悟った教信は、妻と子に、自分の遺骸は庵の側に捨てて鳥獣に与えて欲しいと言い残し、亡くなった。

 亡骸は鳥獣に与えられたが、頭部だけは綺麗に残ったという。

 教信は、一遍や親鸞から、先達として仰がれ、尊敬されたという。

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本堂

 清和天皇は、教信の死後、その徳を偲んで、庵の跡に観念寺という伽藍を建てた。大治元年(1126年)に崇徳天皇が寺号を念仏山教信寺に改めた。天正六年(1578年)に秀吉が野口城を攻撃した際、教信寺も焼け落ちてしまった。

 寺院は焼けたが、諸尊は僧侶の手で焼失を免れ、元和年間(1615~1623年)に寺院は再興された。

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本堂にかかる野口大念仏の額

 本堂は、元和年間に再建されたが、天保十一年(1840年)に火災で焼け落ちる。

 現在の本堂は、書写山如意輪寺の念仏堂を、明治13年1880年)に移築したものである。如意輪寺は、今年8月1日の「書写山麓」の記事で紹介した。

 如意輪寺の念仏堂は、応永五年(1398年)の建築とされている。明治11年に、損傷が激しかったことから、如意輪寺が取り壊しを願い出たところ、教信寺がもらい受けたそうだ。

 それにしても新しく見える建物だ。平成7年の阪神淡路大震災で、本堂は壊滅的な損傷を受けたが、その後復興したものであるらしい。

 本尊は、阿弥陀如来立像である。

 本堂の西側に建つのは、開山堂である。

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開山堂

 開山堂は、元和年間に再建され、観音堂と称していたが、天保十一年の火災で焼失した。その後開山堂として再建されたが、阪神淡路大震災で倒壊し、基礎材以外は新材で再建された。本尊は教信上人頭部像である。鳥獣に食べられずに残った教信上人の頭部を木像にしたものらしい。

 開山堂の奥には、教信上人の墓所と伝わる教信廟がある。

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教信廟

 教信廟の中央に建つ石造五輪塔は、兵庫県指定文化財である。種字が薬研堀で刻まれている。

 元亨三年(1323年)に僧湛阿が教信廟を作ったと伝えられることから、その当時に建てられたものだろう。

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石造五輪塔

 境内には、その他に薬師堂がある。元の開山堂である。

 今でも毎年9月13~15日に、教信上人を追善する野口念仏という念仏法要が行われている。

 賀古の駅は、長年その所在が不明であったが、近年では、教信寺の南側にある大歳神社周辺の古大内(ふるおうち)遺跡が、賀古の駅の遺跡だとする説が有力である。

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古大内遺跡のあった大歳神社

 古大内遺跡からは、播磨国司の統制下に置かれた施設に使われる播磨国分寺系の古瓦が出土している。

 また、教信が賀古の駅の北側に庵を結んだという伝承があるため、古大内遺跡が賀古

の駅の遺跡であると思われる。

 今まで、加古川の史跡の記事で何度も紹介してきた加古川市総合文化センターに、古大内遺跡から出土した瓦が展示されている。

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加古川市総合文化センター

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古大内遺跡出土の瓦

 加古川市総合文化センターの歴史展示コーナーは、無料で入ることが出来る。加古川市内の主な遺跡から出土したものを数多く展示しており、加古川の古代を知るためには必見の施設である。

 教信は、時宗や浄土宗、浄土真宗といった、庶民的な仏教の先駆的な存在である。

 教信は、最澄空海と同時代の人物であるが、出家して難解な教典を理解し、高度な修行を経なければ悟りに至ることが出来ないとされた、当時のエリートのための仏教に疑問を持ったものと思われる。

 そこで、南無阿弥陀仏をひたすら唱え、阿弥陀仏の慈悲に縋れば救われるという、文盲の庶民にも親しみやすい教えを広めたのだろう。

 教信が後世の念仏系の仏教の先駆者だと考えると、ある意味で最澄空海に匹敵する偉大な僧侶だと思われるが、纏まった著作がないためか、あまり脚光を浴びていない。

 シンプルに人助けと人の心を軽くする教えの普及に生涯を費やした教信の人生は、他の高僧の高度で観念的な仏教思想よりも説得力があるかも知れない。