兵庫県加古川市志方町岡にある標高271メートルの城山山上には、赤松円心の四男、赤松氏範が築城した中道子山(なかどうじやま)城跡がある。
赤松氏範は、終始一貫して足利幕府と北朝に与した円心や兄3人と異なり、最後まで南朝方に立って戦った武将である。
足利幕府方に攻められて、最後は、兵庫県加東市にある播州清水寺で切腹して果てた。
城山の上には、元々は本光山中道寺という真言宗の寺院が建っていた。中道寺は、弘仁二年(811年)に、弘法大師の弟子である真紹上人が開山した。
中道寺は、氏範が康暦二年(1380年)に山上に築城した時に、麓に移された。
赤松氏の没落後、新しく城主になった櫛橋氏によって、寺は浄土宗の安楽寺という名で再建された。
私が安楽寺を訪れた時は、本堂から誦経の声が聞こえてきた。
境内に、関東震災横死供養之碑が建っていた。
大正十二年九月一日に発生した関東震災での死者行方不明者は約14万人、その内7割は焼死という凄まじい災害だった。
震災から一か月過ぎたころ、東京に在住する安楽寺の親類筋から、「念仏踊り」供養の依頼が安楽寺にあった。
当時の安楽寺の周辺では、法要などで、御詠歌に合わせて扇子を手に舞い踊る「念仏踊り」が、死者を弔う行事として頻繁に行われていた。
安楽寺の檀家たち20余名は、今のボランティアの先駆けとも言うべく、自費で東京浅草に赴き、浅草・観世音など十数か所で、死者を弔う御詠歌をあげながら、念仏踊りを舞った。
東京市民数十万人は、その姿を見て感泣したという。
供養之碑には、念仏踊りを東京で行った事情や参加者名が刻まれている。
城山は、山頂近くまで舗装路が続いているが、車両では乗り入れできない。
しかし、舗装路というのは歩きやすいものである。さほど苦労せずに登っていける。
途中、山の斜面に巨大な岩石が見えてきた。
この巨岩を登っていくと、祠の中に毘沙門天が安置されている。急斜面ではあるが、鎖を掴んで登ることができる。
かつてこの山の上に真言宗の寺院があったことを偲ばせる。
後日加古川市立総合文化センターを訪れた時に、中道子山城の模型を見ることが出来た。
中道子山城が、本格的山城に発展したのは、大永年間(1521~1527年)であるらしい。今ある遺構は、大永当時のものであるそうだ。
城跡の規模は、山城として東播磨では最大規模である。
赤松氏範が滅ぼされたあと、誰が城主だったか、詳しいことは分かっていない。
天正年間に秀吉に攻められて落城したという伝承もある。
南の大手門跡を通過し、櫓門そばの櫓台跡に至る。石垣が僅かに残っている。
かつてはこの石垣の上に櫓が聳えていたのだろう。次の櫓門(城門)にも、石垣が残っている。
城門を入り、三の丸付近を散策すると、弘法大師像や、四国八十八ヵ所を象った石仏がある。そう古い石仏ではないので、中道寺があったころのものではないだろうが、ここが真言宗の寺院であった名残だろう。
山城があった時の食糧貯蔵場所だった米蔵の跡には、今も三方を囲む土塁が残っている。
米蔵跡を抜けて、最後の城門跡を通過すると、本丸跡に到着する。
本丸跡には、赤松城址と刻まれた石碑が建っている。
また一つ赤松氏の遺跡を踏むことが出来た。赤松円心の息子4兄弟の中で、3人の兄と仲違いをした氏範だけが、滅ぼされるまで意地になって南朝方で戦った事情に興味を覚える。
赤松家を巡る物語は、歴代見せ場があって、興味が尽きない。
本丸跡からは、印南野平野を一望することが出来る。
遥か彼方に淡路島がうっすらと見える。いずれあの島にも渡ることになるだろう。
今日も又地味な記事になってしまったが、史跡を訪れる私の心は浮き立っている。
赤松氏範と中道子山城に属した組織は、綺麗さっぱり消滅した。人間が所属する組織は、いずれは消えていく。現代人が永遠にあると思っている自分が所属する組織も、いずれは消滅する。
史跡を訪ねれば、いずれ消滅することを気にかけず、組織のために生きた人々の思いが聞こえてくる気がする。その思いは尊重すべきである。