雲頂山大明寺

 生野銀山を出て、国道429号線丹波方面に向けて走る。

 生野ダムが堰き止めて出来た銀山湖の畔の道を、スイフトスポーツで疾走する。ダム湖沿いの曲がりくねったワインディングロードを、右へ左へとハンドルを切って進む。私は、ここを走って、漸くZC33Sの限界付近での挙動を掴めるようになった。

 さて、そうやって黒川ダムの近くまでやってきた。

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黒川ダム

 黒川ダムは、ロックフィル式のダムである。ロックフィル式ダムとは、岩石や土砂を積み上げて造られたダムのことだ。

 黒川ダムの表面は、ごつごつした岩で覆われている。このダムが堰き止めた水で、黒川ダム湖が出来ている。膨大な質量のある建造物だ。

 この黒川ダムのすぐ近くにあるのが、臨済宗妙心寺派の寺院、雲頂山大明寺である。地名で言えば、兵庫県朝来市生野町黒川にある。

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大明寺

 大明寺は、正平二十二年(1367年)に、月庵禅師が開基した寺院である。月庵禅師は、日本全国を歩いて、各地に禅寺を開いた僧侶である。

 月庵禅師は、黒川の地を訪れ、大明寺の西北の、今はダム湖の底に沈んでしまった渓水が丸石を巡って流れる場所で、その丸石の上に日夜坐禅を組み、草庵を作った。

 月庵禅師が坐禅したとされる坐禅石は、昭和46年に、ダム湖の底に沈むのを避けるため、大明寺の境内に移された。 

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坐禅

 当時、黒川の地には狼が出没して村人に恐れられていた。ある時、この丸石の上で坐禅をしていた月庵禅師の傍へ、口に魚の骨が刺さった老いた狼が寄って来た。禅師は狼の口に刺さった骨を抜いてやった。狼はお礼に稲穂を禅師に捧げた。その稲穂を植えると、黒川は豊作に見舞われるようになったという。

 禅師は狼にこの地を去るよう諭した。以後黒川の地で狼による被害はなくなったという。

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月庵禅師と狼の像

 大明寺の近くの観光駐車場の脇に、月庵禅師と狼の銅像が設置されていた。何ともほほえましい逸事だ。

 さて大明寺の山門を潜ると、目の前に茅葺の開山堂が聳えている。最近修復されたのか、実に美しい入母屋造りの茅葺屋根を持ったお堂であった。

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開山堂

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 この開山堂は、本堂も兼ねているようで、ご本尊の釈迦牟尼仏を祀っている。

 堂内は静けさに包まれている。禅宗寺院らしく、華美な装飾はない。

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開山堂内部

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ご本尊釈迦牟尼仏

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開山堂の柱と床

 月庵禅師に師事したのが、但馬国守護となった山名時熈(ときひろ)である。時熈は大明寺を手厚く保護した。

 開山堂の奥には、月庵禅師と時熈の木像が奉安されている。

 大明寺は、天文年中(1532~1554年)に祖堂を残して焼失する。その後荒れたままになっていたが、寛永年間(1624~1644年)に大愚禅師によって再興された。徳川家光に寺領を賜り、幕末まで寺院は存続出来た。

 現在残る開山堂と庫裏などは、江戸時代の建物だろう。

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庫裏

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 境内には、昭和61年に、彫刻家北村西望が造った遺作の聖観音立像が祀られている。北村西望102歳の作だそうだ。北村西望は、長崎平和記念像や、国会議事堂内の板垣退助翁像の作者として著名である。

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聖観音立像

 表面の箔が剥落し始めているが、見事な像である。同じく西望作の、広島の平和聖観音菩薩像に似ている。近代日本を代表する彫刻家が造った仏像が、こんな山奥の寺院にあるのである。

 人が訪れるのが稀な山奥にも、由緒のある寺社があるものだ。大明寺を訪れて、何だか宝物を見つけた気分になった。