西月山真光寺

 薬仙寺から北に歩き、橋を渡るとすぐ西側に時宗の寺院、西月山真光寺がある。住所で言うと、神戸市兵庫区松原通1丁目である。

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真光寺

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 真光寺は、神奈川県藤沢市にある時宗総本山清浄光寺の末寺に当るという。

 ここは、遊行僧一遍上人の示寂の地と言われ、一遍上人の供養塔が建っている。

 一遍上人は、延応元年(1239年)に伊予国の豪族河野通広の子として生まれた。宝治二年(1248年)に実母が亡くなり、世の無常を感じて出家した。

 浄土宗に入門した一遍は、修行と学問に明け暮れた。そして衆生と念仏を結び付けるため、「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書いた念仏札を配り歩いた。

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本堂

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本尊阿弥陀如来立像を祀る厨子

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本堂の格天井絵

 一遍上人は、四天王寺を出発し、高野山を経て熊野に向かいながら念仏札を配った。

 一遍上人は、この熊野の地で一大転機を迎える。山道で一人の僧と出会った上人は、念仏札を渡そうとするが、僧から信心が起きないので受け取れないと拒まれた。

 一遍上人は、押し問答の末に、僧に無理矢理札を渡してしまった。この出来事で苦悩した一遍上人は、熊野権現にすがるため、熊野本宮の熊野証誠殿に参籠した。すると山伏姿の熊野権現が現われ、念仏勧進の真意を一遍に示したという。

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一遍上人木像

 このとき、熊野権現一遍上人に「融通念仏を勧めている聖である一遍よ、なぜ間違った念仏を勧めていると思うのか、あなたの勧めによりはじめて人びとが往生できるのではない。すべての人びとは、十劫というはるか昔に法蔵菩薩が覚りを得て阿弥陀仏に成ったときから、南無阿弥陀仏と称えることにより往生できるのである」と告げた。

 これを熊野権現神勅といい、時宗では、この時を立教開宗とする。

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一遍上人廟所

 同じ念仏を唱える浄土真宗は、阿弥陀如来の本願を信じることで人は救われると説くが、時宗では、遥か昔に阿弥陀仏が覚った時に、全ての人が南無阿弥陀仏と唱えることで往生できると決まったのだから、信仰心の有無は関係ないと説く。

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一遍上人廟所の阿弥陀如来坐像

 もはや、個々の人間の性質や信仰心は関係なく、南無阿弥陀仏と唱えれば全て問題なしという、驚くほど包容力のある教えが誕生した。

 信仰心が必要ないという宗教は、なかなかないものである。

 一遍上人は、全国を遊行し、踊りながら念仏を唱える踊り念仏を民衆に勧めた。

 そして、正応二年(1289年)に、この地に建っていた観音堂で没した。亡くなる前の上人は、「一代の聖教みなつきて、南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と釈迦の教えは全て南無阿弥陀仏に集約されると語り、「我がなきがらは野に捨てて、けだものなどに施せよ」と語った。

 しかし、時宗の宗徒は、一遍上人の亡骸を荼毘に付し、この地に手厚く葬った。

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一遍上人廟所

 一遍上人は、辞世の歌として、

旅ごろも 木の根かやの根 いづくにか 身の捨てられぬ ところあるべき 

 と詠んだ。

 南無阿弥陀仏と唱えてさえいれば、いつどこで死のうが万事良しとすべきということか。底抜けに楽天的な教えである。

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石造五輪塔

 一遍上人墓所と伝えられる一遍上人廟所は、兵庫県指定史跡であり、墓石とされる石造五輪塔は、兵庫県指定文化財である。

 一遍上人の墓石と言うが、南北朝時代に造られた塔であるらしい。一遍上人の元々の墓石は、もっとささやかなものだったろう。ただの石を置いただけの方が、一遍上人らしい気がする。

 一遍上人の弟子の他阿上人真教が、一遍の墓所に寺を建て、伏見天皇から寺号勅願を得て、真光寺と称した。

 平成7年の阪神淡路大震災で石造五輪塔は倒れたが、その際塔の中から骨灰が現れたという。

 真光寺は、神戸大空襲で伽藍の全てを失った。今の本堂は、戦後に鉄筋コンクリートで再建されたものである。

 かつて阿弥陀堂が建っていた場所には、無縁仏を集めた無縁如来塔が築かれている。

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無縁如来

 一遍上人が、この地に建っていた観音堂に住み着いたのは、健治二年(1276年)であるが、その約100年前の承安二年(1172年)に、平清盛がこの地を訪れ、厳島明神を勧請した。真野弁財天と呼ばれ、手厚く祀られた。

 その時清盛が祀った真野弁財天は、神戸大空襲で焼けてしまった。今は新たにインドから招来した弁財天を観音堂に祀っている。

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観音堂

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観音堂の内部

 観音堂には、弁財天の他に、観世音菩薩や毘沙門天が祀られている。

 境内には、清盛が訪れた時に、観音堂の住職が水を汲んでお茶をたてて献じたという清盛御膳水の井戸がある。

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清盛御前水の井戸

 真光寺には、国指定重要文化財の「紙本着色遊行縁起」10巻が伝わっている。一遍上人の弟子宗俊が撰述したもので、三井寺の僧侶行顕の詞書が記されている。

 当ブログ令和元年12月10日の「教信寺 古大内遺跡」の記事で、一遍上人の先達とも言うべき平安時代初期の僧侶・沙弥教信を紹介した。

 南無阿弥陀仏と唱えながら人のために働き、死んだら死体は鳥獣にくれてやるという生き方は、教信も一遍も同じである。

 どうすれば、こんなに明るく強靭な死生観に到達できるのか。私も知らず知らず色んなものを背負っているつもりになっているが、実は最初から何にも背負っていないのかも知れない。

 教信や一遍の生き方には、参考にすべきものがある。