今回、播磨、備前に次いで美作に足を踏み入れた。史跡巡りを始めてから訪れた3つ目の国である。
畿内と出雲との間を結ぶ出雲街道の土居宿は、幕府の命により、慶長年間に津山藩主森忠政によって整備された。
土居宿は、播磨から美作に入って最初の宿場町である。江戸時代の宿場町は、主に参勤交代の大名行列が宿泊するために整備された。
土居宿には、大名や勅使、上級武士が宿泊する本陣、脇本陣、家来や従者が泊まる宿屋、飛脚が運ぶ荷物などを扱う人馬問屋、東西の惣門などが整備された。
岡山県美作市土居が、土居宿のあった町になるが、今の土居宿には、当時の建造物はほとんど残っていない。旧出雲街道の左右に家並みが続く様子が、かつてここが宿場町であったことを彷彿とさせる。
JR姫新線の土居駅前の南にある東西道がかつての出雲街道である。
町の中心部に本陣跡(安東家)がある。
土居宿は、町の東端と西端に惣門を設置して、門番を置いて警戒し、日没後は門を閉めた。
東西に惣門を設置した宿場町は全国的にも稀であるらしい。惣門は明治2年の関所廃止令により取り壊されたが、平成13年に西惣門が復元された。
この土居宿西惣門前で、幕末にある事件が起きた。
岡山藩士岡元太郎、土佐藩士井原応輔、島浪間、千屋金策の4名は、文久三年(1863年)から元治二年(1865年)にかけて、尊王攘夷派の同志を集めるため、作州路を遊説していた。
しかし途中で活動資金に困り、今の岡山県久米郡美咲町百々の酒造業池上文左衛門を訪ねて、資金融資を申し込んだ。しかし池上が「返すあてもない者に金を貸せるか」と断ると、4人は憤激した。それを見た池上家の使用人が4人を強盗と間違えて半鐘を鳴らした。百々の村民が鍬や竹槍を持って集まり、4人を追いかけた。4人は百々の町から土居宿まで約20キロメートル追いかけられ、途中で竹槍で突いてきた村民を仕方なく斬った。
4人は土居宿の西惣門まで辿り着いたが、門が閉まっていた。門番の熊七が4人に「刀を預かる」と言った。刀を預けたら門を通すという意味で言ったのだろう。刀を預けるのは当時の武士としては出来なかったのか、4人は熊七を斬り殺してしまった。
追い詰められ、もはやここまでと悟った4人の内、岡は西惣門脇の松の根方で切腹、井原と島は刺し違えた。千屋だけは土居宿に入り、泉屋に宿泊して、自分達の汚名を晴らそうとしたが、それもかなわず泉屋で自刃した。
その後遺書が見つかって4人の志が分かり、4人の遺体は土居宿の門尻河原に埋葬され、「四ツ塚様」と呼ばれるようになった。
明治31年に政府から4人に対して正五位が与えられ、墓地も現在の土居小学校のグラウンド奥に改葬された。
西惣門の西側には、四ツ塚志士顕彰碑が、土居小学校脇には4人の墓である四ツ塚が建っている。
4人の墓地の側には、土居村出身の尊王攘夷派の志士安東鉄馬の碑がある。安東は、元治元年(1864年)の蛤御門の変で、築後出身の尊王攘夷派真木和泉指揮下の部隊に所属して戦い、22歳で戦死した。
幕末の日本では、各地方の血気盛んな若者達が立ち上がって、時代を変革していったのが実感できる。
西惣門から西に約200メートルほど行くと、岡山県指定史跡である土居一里塚がある。
江戸幕府が開府してから、江戸日本橋を起点にして、一里ごとに各街道両側に一里塚が築かれた。一里塚は、文字通り土を盛った塚で、塚には榎や松が植えられた。木を植えたのは、木陰で旅人が休めるようにするためと、根を張らせて塚の崩落を防ぐためであった。
一里塚は、街道を挟む形で、二つ一対で作られたが、今日本に残る一里塚は、片側しか残っていないものが多い。
土居一里塚は、両方が残っている珍しいものである。
北側の塚には松が、南側の塚には榎が植えられている。写真のようにまだ塚の形が残っている。
元々植えられていた松は戦時中に献木のために切られ、榎は戦後に切られた。昭和47年に松と榎が再び植えられた。
普通の旅行なら、こんな一里塚は見過ごすところだが、少し気に留めて観るだけで、江戸時代の街道の空気感までが甦ってくるような気がする。
土居宿は江戸時代に整備された出雲街道の宿場町だが、中世には播磨美作間は土居宿から北側の杉坂峠を通る道が使われていた。今丁度中国自動車道がその近くを通っている。
後醍醐天皇が隠岐に流された時も、この峠を越えたとされている。後醍醐天皇を奪回しようとした児島高徳が、ここより南の船坂峠で待ち構えて空振りに終わったのは、「三石」の回で書いた。
今の杉坂峠の舗装道路は、山を掘削して造られている。元々の峠道は、山の上にあった。後醍醐天皇は、鎌倉幕府を何としても打倒する決意に燃えて、ここを通過したことだろう。
土居の町の南方約5キロメートルに、角南(すなみ)という集落がある。この集落の民家の裏に大日堂がある。
角南には、元々菩提山善福寺という真言宗の寺院があった。慶長年間に津山藩主森忠政が、善福寺を津山城下に移したが、なぜか善福寺に祀られていた木造大日如来坐像は角南に残した。
今大日堂に祀られる木造大日如来坐像が即ちそれである。
平安時代の11世紀後半に造られた像だとされている。像は完全な一木造りで、胎蔵界の大日如来の御姿である。岡山県指定重要文化財である。
その隣には観世音菩薩立像が祀られている。
寺院に行っても、仏像を間近で拝観することはなかなか出来ない。このような優美な平安朝の仏像を近づいて拝むことが出来るのは、ありがたいことである。
古い街道を歩いて、昔の人々の生活の足音を聞くのは面白い。これからも様々な日本の宿場町を訪れることになるだろう。