土居宿から西に進むと江見の町が見えてくる。そこから北上してすぐの美作市藤生に、江見廃寺がある。別名閻武廃寺という。白鳳期に建てられた寺院の跡であるという。
ゲートボール場の片隅に、一つだけ礎石が残っている。
この付近からは、複弁七弁蓮華文の軒丸瓦が出土している。この瓦が出土する寺院は、壬申の乱で大海人皇子側に加わって、論功行賞で建立が許された寺院だという。
江見廃寺から北東に進み、兵庫県との県境の山地に足を踏み入れる。美作市大聖寺にあるのが、真言宗の寺院、恵龍山大聖寺である。天平十年(738年)に行基菩薩が開基したと伝えられる。天正六年(1578年)の上月城合戦の際に一度焼失したが、津山藩主森忠政が、慶長九年(1604年)ころに、本堂不動院や本坊を再建した。
寺域は広大である。大聖寺は別名「あじさい寺」とも呼ばれ、紫陽花の季節には、寺域が優雅な花に覆われる。
寺域には、真言宗の寺院らしく、多宝塔がある。
昭和60年に、弘法大師入定1150年を記念して、鎌倉時代の様式で再建された。新しい塔だが、私が史跡巡りで初めて訪れた多宝塔である。
本坊の前には、天然記念物の大聖寺のイチョウが二株立っている。
私は銀杏の木が昔から好きなのだが、今は銀杏の葉が美しい黄色になる季節である。
大聖寺の本坊内部の拝観は出来ない。外から写真を写すのみである。
大聖寺の本堂不動院は、秘仏の不動明王をご本尊として祀っている。33年毎に開扉される。次は令和6年に開扉されるそうだ。
本堂は、屋根の崩落を防ぐために、足場が組まれている。この辺りは、冬は結構積雪する。長年の風雪に耐えてきた建物である。
山上から麓に下りて、吉野川を遡って更に北に行き、豆田の集落に入る。小さな薬師堂があって、その前に廃寺の礎石がある。大海廃寺である。
大海廃寺は、康安元年(1361年)に焼失した寺院跡で、吉野寺とも呼ばれたという。
発掘によって、かつてここに、塔、金堂、講堂、南門、中門、築地を備えた寺院があったことが確認された。ここも白鳳時代の寺院跡である。
大海廃寺から更に吉野川を遡り、美作市宮原に行くと、岡山県重要無形民俗文化財である宮原獅子舞を伝える天曳神社に至る。
天曳神社は、大聖寺と同じ天平十年(738年)の創建。吉野郷の総社で、猿田彦神を祭る。
宮原獅子舞は、約300年前に赤穂から伝わったという。獅子の頭、胴、尾に1人づつ入り、3人で舞う。舞は全部で18段あり、勇壮華麗であるらしい。
宮原獅子舞は、戦後に一時期途絶えていたが、有志の努力で復活したそうだ。
更に北に進み、沢田の集落に着く。ここには貞和五年(1349年)の銘のある石造宝篋印塔が建つ。岡山県指定文化財である。
南北朝時代の古い宝篋印塔だが、相輪から土台まで全て綺麗に残っており、貴重な文化財である。
さて、そこから更に北上し、粟野の集落に入る。
ここにも岡山県指定文化財の石造宝篋印塔がある筈だが、どうにも見つからない。農作業に従事している70代くらいの男性に尋ねてみた。
「あの斜面の上にありますよ。僕らが子供のころはあそこで遊んだものだがねえ。子供のころは、もっと塔が建っていましたが、今は一つしかないです。」
私は、男性が指し示した斜面に向かった。道が整備されているわけではなく、生い茂る笹をかき分けながら急斜面を登って行った。
本当にこんなところに史跡があるのかと思いながら登っていくと、ようやく地面が平らになった。ススキの向こうに宝篋印塔が見えた。
周辺は、雑草を刈られることもなく、そのままの状態となっている。最近は訪れる人もいないのだろう。この打ち捨てられたかのような史跡を見て、中世にタイムスリップした気分になった。
ひょっとしたら、夜になると狐や狸がここにお供え物をしに来るのではないか。そんなちょっと楽しい想像をしてしまう。
史跡は、観光地として整備されて人でごった返すような場所よりも、こういった誰も訪れない場所の方が、静かな感動を覚えることがある。
誰にも顧みられない史跡というのも、いいものである。