大輪田泊の石椋のすぐ北東に、浄土宗の寺院、来迎寺(築島寺)がある。
地名で言うと、神戸市兵庫区島上町2丁目に建っている。島上町は、承安年間(1171~1175年)に、平清盛が造った人工島の経ヶ島の上に出来た町である。
来迎寺は、元々はここから北西の三川口町の辺りにあったとされるが、いつしかこの地に移転したそうだ。
清盛は、北側を山に囲まれた天然の要害で、良港の大輪田泊のある現在の神戸市兵庫区周辺を気に入り、ここに皇居を移そうとしたが、結局は計画のみで終わった。
清盛は、大輪田泊を拡張し、日宋貿易の拠点港にするため、人工島経ヶ島の築造工事に取り掛かった。
経ヶ島の築造工事は、暴風雨によってなかなか進まなかった。陰陽博士に占わせると、「これは竜神の祟りである。30人の人柱と一切経を書いた石を沈めると工事は成就するだろう」と言われた。
そこで清盛は生田の森に関所を設け、人柱にする人を捕え始めた。捕まった人やその家族は嘆き悲しんだ。
清盛の小姓だった17歳の松王丸は、清盛に「人柱は罪が重いです。私一人を身代わりに沈めて下さい」と懇願した。松王丸は30人の人柱の身代わりに入水し、無事経ヶ島の工事が終わった。
経ヶ島の名の由来は、一切経を書いた石を沈めたことから来ているとされている。
天皇は松王丸の犠牲を悲しみ、その菩提を弔うため、来迎寺を建立したという。
来迎寺境内には、松王丸の供養塔である、松王小児入海之碑と、清盛が寵愛した白拍子である妓王、妓女姉妹の供養塔がある。
この松王小児入海之碑が、松王丸が入水した当時に建てられたものかどうかは分からない。
当ブログ今年1月28日の記事「大和島 絵島」の記事で、絵島の上に建つ宝篋印塔が松王丸の供養塔とされていることを紹介した。それが事実なら、明石海峡を挟んで、松王丸の供養塔が二つあることになる。
松王小児入海之碑の隣には、妓王妓女塔がある。
白拍子とは、平安時代末期から鎌倉時代に流行した歌舞の一種で、男装の遊女や子供が、今様や朗詠を歌いながら舞った。白拍子を舞う舞妓も、いつしか白拍子と呼ばれるようになった。
清盛の心が別の白拍子、仏御前に傾くに及び、妓王妓女は世の無常を嘆いて出家し、嵯峨野に庵を結んだ。今の妓王寺である。
平氏滅亡後、妓王妓女は、兵庫の八棟寺(今の能福寺)に来て、平氏一門の菩提を弔ったという。
世の移り変わりは早く、無情なものである。
さて、来迎寺から西に約150メートルほど歩くと、札場の辻跡がある。
札場とは、幕府の布達などを高札に書いて掲示する高札場のことである。
都と大宰府を結ぶ山陽道は、元々は今の神戸市街のある場所を直線状に通っていたが、鎌倉時代に兵庫津が発展するに従い、兵庫の町に立ち寄るために道がV字になった。
兵庫の町の北東の出入口は、湊口惣門と呼ばれ、北西の出入口は柳原惣門と呼ばれた。
湊口惣門から南西に伸びる西国街道は、この札場の辻跡で直角に折れて、北西に向かう。
現在も札場の辻跡の角で道は直角に曲がっている。
上の写真の地図を見ても、JR神戸駅前を除けば、江戸時代に西国街道が通っていた場所に、今も道が通っているのが分かる。
江戸時代には、幕府が新しい方針を高札に書いて、この札場に掲示するたびに、人だかりが出来たことだろう。
札場の辻跡から北東に歩くと、本町公園がある。公園の西側に、岡方惣会所跡の碑が建っている。
江戸時代には兵庫津の行政区域は、北浜、南浜、岡方に三分されていた。
これを三方と言い、大坂町奉行所が三方を支配していた。
三方にはそれぞれ惣会所が置かれ、名主が惣代や年寄を指揮して行政を行った。
岡方は、兵庫津のうちで海に接していない地域で、その岡方の惣会所が置かれていたのがこの地である。
この岡方惣会所跡の碑のある場所は、モダンな石造りの洋館の敷地内であった。
この洋館が一体何なのか興味を覚えたが、調べてみると、どうやらこの建物は、兵庫の商人たちが地域の社交場として昭和2年に建設した岡方倶楽部の跡らしいことが分かった。
この建物は、地元では神戸大空襲と阪神淡路大震災を生き延びた奇跡の建物と呼ばれ、平成25年からは兵庫津歴史館岡方倶楽部として神戸市が管理している。
最近新聞記事を読んでいると、イオンモール神戸南店の南側に、元は大坂町奉行所の勤番所だった初代兵庫県庁の建物を復元し、兵庫津ミュージアムという名称で兵庫津の歴史を紹介する施設とする計画が進んでいると書いていた。
地元の兵庫県民も、兵庫津の歴史はほとんど知らない。かく言う私も今回史跡巡りをするまで知らなかった。
自分の住む県の歴史を知ることは、いいことではないかと思う。