西宮市立郷土資料館

 西宮神社の参拝を終え、西宮市川添町にある西宮郷土資料館を訪れた。

西宮市郷土資料館のある西宮市教育文化センター

 西宮市立郷土資料館は、西宮市立中央図書館などの入る西宮市教育文化センターの中にある。

 西宮市内の遺跡から発掘された遺物や、生瀬(なまぜ)宿の模型などが展示されている。

西宮市立郷土資料館の入口

 館内に展示されている最も古い遺物は、仁川高台遺跡から発掘された弥生時代の石器である。

弥生時代の石器

 石斧や石包丁、石の矢じりなどである。

 石器は金属器と比べて、使った時の作業能率はかなり下がるだろう。だが、石からこのような道具を作るのも一苦労だろう。どの石器も、滑らかに磨かれている。磨製石器である。

 私たちの祖先が石斧で木を切り倒して土地を開き、田を耕した時代があったのだ。

 甲山山頂から出土した銅戈が展示されていたが、銅器はどちらかと言うと、祭具として使われたので、これで生産力が上がったとは思えない。

銅戈

 古墳時代後期の古墳、具足塚古墳から出土した鉄の武具が展示してある。

鉄の武具

 鉄器の出現は、農業生産や土木工事、兵器の全てを変えた。

 鉄器が画期的だったのは、高温になれば溶けるので、炉と型があればどんな形にでも成形できるというところだろう。

 現代でも、人間が使う道具の多くに鉄が使われている。

 画期的な技術が登場して、人間社会が変化していく姿を見るのが好きである。

 今は生成AIとロボットが、人類社会をどこに持っていくのかに興味がある。

 館内には、永正十五年(1518年)の銘のある砂岩製の石造五輪塔がある。

石造五輪塔

 銘がはっきり識別できる名品である。屋内で展示した方がいいだろう。

 さて、今年3月21日の当ブログ十方山浄橋寺の記事で、西宮市の北側にある生瀬について書いた。

 生瀬は江戸時代の有馬街道沿いの宿場町である。

 西宮市立郷土資料館には、生瀬宿の精密な模型が展示してある。

生瀬宿の模型

 入母屋造、茅葺屋根の店や宿が、有馬街道沿いに並んでいる。

 家屋の裏側には、便所や厩、畑などがあったようだ。

生瀬宿の家屋の裏側

 私は生瀬で現在も残る有馬街道を歩いてみたが、江戸時代には、あの道の両側に、この様な茅葺屋根の家屋が並んでいたわけだ。

 館には、江戸時代の西宮の町並みを描いた地図が展示してあった。

江戸時代の西宮

 ピンク色の道が、当時の西国街道である。左側にある西宮大神宮というのが、今の西宮神社である。

 西宮は、西宮神社門前町として発展した。こうして見ると、西宮神社の東南に町がある。

 今の国道2号線沿線には、人はほとんど住んでいなかったようだ。

 ところで西宮には、江戸時代に酒造が盛んになった灘五郷の内の二つ、西宮郷今津郷があった。

 ここで造られた酒は、樽廻船という船で江戸まで運ばれた。

樽廻船

 樽廻船は、西宮港、大坂港を出発して、紀伊半島を回り、伊勢の鳥羽港で風待ちをして、天候が良くなれば一挙に遠州灘を横切り、伊豆に至るという航路を取った。

樽廻船の航路

 最短2.5日間、平均6日間の航路であったという。

 享保十五年(1730年)には、新酒番船と呼ばれる、その年の新酒を江戸に届ける早さを競う、樽廻船同士のレースが行われるようになった。

 各船の船頭は、技術を駆使して先を急いだ。

 新酒番船で一着となった船の乗組員は、赤い半纏を着て、下り酒問屋のある新川、新堀界隈を練り歩き、料亭で歓待されたという。

新酒番船の一着の乗組員が着た赤い半纏

新酒番船で優勝した者に与えられた盃

 当時の日本の運輸の世界では、船が最も早く大量の荷物を運ぶことが出来た。

 優秀な船頭を持つ船問屋は、かなり稼ぐことが出来ただろう。

 船が着く各港も、町として発展した。

 明治時代になって鉄道が発達すると、舟運は一挙に衰えた。

 技術の変化と共に、人間社会は変化する。携帯電話が出て来ると、公衆電話やテレホンカードは一挙に衰えた。

 新しい技術の登場は、歴史的な出来事である。技術の革新のペースが早い現代社会は、歴史的に激動している社会だと言っていい。

 現代人が何気なく使い始めた道具が、数百年後、歴史的な転換を齎した道具として、歴史の授業で教えられているかも知れない。