米田天神社 泊神社

 剣聖宮本武蔵

 その出生地は播磨国だと言われている。出生地とされている高砂市米田町米田にある米田天神社を訪れた。

 武蔵の甥で、武蔵の養子となった宮本伊織は、小倉藩の筆頭家老となったが、故郷の氏神である泊神社(現兵庫県加古川市)が荒廃しているのを歎き、承応二年(1653年)に社殿を再建した。

 その時に泊神社の古い社殿を、泊神社の末社で、出生地の米田に建つ米田天神社に移築したとされている。

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米田天神社

 宮本武蔵の出生地には、古くから播磨説と美作説がある。

 武蔵が晩年に著したとされる「五輪書」に「生国播磨」と書かれていることや、伊織が泊神社に奉納した棟札に、武蔵の出生地を高砂の米田の地と書いているのが播磨説の根拠となっている。

 一方、江戸時代後期に成立した「東作誌」という美作東部の地誌に、昔からの言い伝えとして、武蔵が美作の地で生まれたとあると書いてあるのが、美作説の根拠となっている。

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米田天神社拝殿

 これだけ見ると、武蔵本人と養子の伊織が書いた一次資料を根拠にする播磨説の方が圧倒的に正しいように思える。

 伊織の棟札が見つかる前は、吉川英治昭和10年から連載した小説「宮本武蔵」で美作出生説を取り上げたため、美作説が人口に膾炙していた。   

 その後、昭和36年に、泊神社の社殿の改修工事中に、伊織が書いた棟札が屋根裏から見つかった。

 そこには、概ね次のことが書いていた。

 余(伊織)の祖先は赤松氏である。 先祖の赤松持貞の時に、ある事があって(一説に将軍の側室に手をつけたという)、京を離れ、赤松の名を捨てて 田原に改称し、播州印南郡米堕(米田)村に住んだ。子孫代々ここに産まれ育った。余の父は久光で、その弟が武蔵である。 
 美作に新免という家があったが、天正の間、あと嗣ぎが無いまま、筑前秋月城で亡くなった。 遺を受け新免家を継承したのが、武蔵である。武蔵は後に宮本と氏を改めた。 武蔵に子が無かったため、余が養子となった。 ゆえに余は今はその氏(宮本)を称している。 

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正保三年銘石灯篭

 これにより、播磨説は優勢となった。そうすると、美作は、武蔵が養子に入って剣術修行をした地ということになる。

 米田天神社社頭には、田原氏と縁戚関係にあったとされる大山政次が正保三年(1646年)に寄進した石灯篭二基が建つ。武蔵が死んだのが正保二年(1645年)なので、いわれがありそうだ。

 今の米田天神社の社殿は、コンクリート製で、味気ない建物である。

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米田天神社本殿

 米田天神社に隣接する神宮寺には、伊織が正保三年(1646年)に寄進したとされる鰐口がある。

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神宮寺

 神宮寺の本堂前に鰐口が下がっていたが、昭和のものであった。正保のものはしっかり管理されているのだろう。

 米田天神社の南側は公園になっていて、その西側に細川護貞揮毫の「宮本武蔵伊織生誕之地碑」がある。

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宮本武蔵伊織生誕之地碑

 重量100トンに及ぶ巨大な石碑である。

 平成2年に宮本武蔵・伊織顕彰会の手により、この地に設置された。細川護貞は、武蔵が最後に仕えた熊本藩主の末裔である。

 又、武蔵が正保二年に書いた「独行道」を彫った石碑や、宮本家の子孫が建てた田原・宮本家父祖の地碑があった。

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独行道の碑

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田原・宮本家父祖之地碑

 宮本武蔵も、赤松家の流れを汲むというのが、私にとっては面白い。

 さて、加古川市加古川町木村にある泊神社を訪れる。

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泊神社神門

 泊神社の祭神は、天照大神、国懸大神、少彦名大神である。

 天照大神が、天岩戸に隠れた時に、天照大神をおびき出すために鏡が二つ造られた。一つは三種の神器八咫鏡」として伊勢神宮御神体となり、レプリカが皇居賢所に祀られている。もう一つが海に流されて、当時浜辺だったこの地に泊まり着いた。これを祀ったのが泊神社の創建だという。そうだとすれば、もっと社格が高くても良さそうなものだが、そうもなっていない。その鏡がどこに行ったのかも分からない。

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泊神社拝殿

 飛鳥時代に、聖徳太子が泊神社の近くに鶴林寺を建立した時に、側近の秦河勝氏神である紀州の国懸大神を勧請したとされている。そういえば、和歌山市の国懸神宮に隣接する日前神宮には、八咫鏡と同等の鏡が祀られている。何か関係がありそうだ。

 先ほども書いたように、この神社の社殿は、宮本伊織が承応二年(1653年)に再建したものである。その時に、伊織は宮本家の祖先伝承を書いた棟札と、狩野派の絵師甲田重信が描いた三十六歌仙図絵馬を奉納した。

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宮本伊織の棟札と三十六歌仙図絵馬

 拝殿には、棟札と三十六歌仙図絵馬の写真が掲げられている。

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三十六歌仙図絵馬の写真

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在原業平

 私は古典文学の中では哀愁一入の「伊勢物語」が好きなので、業平を代表として掲げておく。

 本殿、神楽殿は、伊織が再建した当時のもので、国登録有形文化財となっている。

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楽殿

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本殿

 本殿裏の玉垣内には、承応二年に宮本伊織と親族の田原正久が寄進した石灯篭二基がある。

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宮本伊織寄贈の石灯篭

 また、泊神社のあった辺りには、南北朝時代に石弾城という城が築かれていた。

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石弾城址

 城跡の遺構は全く残っていない。石弾城は、暦応二年(1339年)に大井三樹伊予守宰によって築かれた。大井氏は後に雁南氏、木村氏を称し、赤松氏に従ったが、長禄元年(1457年)、山名宗全に攻められて落城したという。

 余談だが、武蔵の「独行道」の中の、「仏神は貴し、仏神を頼まず」という言葉が気に入った。

 天を尊ぶが、天に頼らず自立した精神で精進するということだろう。強い精神力がないと立てない境地だと思う。剣の道を究めた武蔵だから辿り着けた境地だろう。こういう強さに憧れるばかりである。