兵庫県加西市繁昌町にある乎疑原(おぎはら)神社は、奈良時代の創建とされている。
平安時代の延喜式にも載っていて、加東郡、加西郡35ヶ村の総社として、例祭には朝廷から幣帛が供進されていた。
祭神は、元々は大国主命と少名彦命であったが、近くにある真言宗の百代寺の隆全が、菅原道真公を合祀した。今では「繁昌の天神様」と呼ばれ、地元の崇敬を集めている。
乎疑原神社の石造鳥居は、なかなか古い鳥居である。加西市指定文化財になっている。
鳥居の隣にある石祠にかつて安置されていた石造五尊像は、白鳳時代のものと伝えられる。石造五尊像の実物は、現在は奈良国立博物館に保管されている。
今も石祠は残っているが、中にある石仏は、かつてあったもののレプリカだろう。
中央に如来坐像、左右に各2体の菩薩立像を配する。石造五尊像は、いつかは分からぬが、乎疑原神社の東側を流れる普光寺川から拾い上げられて、天神の森の石仏と呼ばれるようになった。
石造五尊像は、後で説明する繁昌廃寺の石仏が、普光寺川に捨てられて、後に拾われたものではないか。
乎疑原神社は、かつては寺院と一体化していたものと思われる。神社ではあるが、鐘楼と銅鐘がある。
乎疑原神社は、小高い丘の上にあるが、丘の東側に、白鳳時代、奈良時代には繁昌寺という寺院があった。
繁昌廃寺の跡からは、南北の門、金堂、講堂、塔、西面土塁が見つかった。東塔の遺構は見つかっていないが、かつては金堂の南側に塔が2つ並ぶ薬師寺式の伽藍配置だったと思われる。
繁昌廃寺のあった場所は、今は田んぼになっている。
繁昌廃寺の西側の丘の斜面には、繁昌廃寺の軒瓦を製作していた山の脇瓦窯跡がある。兵庫県指定史跡となっている。
ここから、奈良時代前期の、繁昌廃寺創建当時のものと思われる、素縁八葉花紋軒丸瓦と忍冬唐草紋軒平瓦が出土した。今は、兵庫県立歴史博物館に展示してある。
白鳳期や奈良時代の寺院やその遺物からは、大陸の風の匂いがするようで、ロマンを感じる。大陸から先進の文化が入ってきた、活気ある時代だっただろう。
この時代は渡来人の時代でもあった。渡来人が、大陸から仏教を始めとする様々な文化を日本に持ち込んだ。奈良時代は、国際色豊かな、色彩鮮やかな時代である。
今の日本も実質的に移民社会に移行していると言われているが、飛鳥白鳳や奈良時代のことを考えると、元々日本は移民国家だったのではないかと思えてくる。
繁昌廃寺から北に行った加西市池上町にあるのが日吉(ひえ)神社である。
創建は、淳和天皇の天長年間(824~834年)で、慈覚大師円仁が比叡山の地主神、山王権現を勧請したのがおこりだという。
日吉神社の明神鳥居は、元和六年(1620年)の年号が刻まれている。元和以前に建立された鳥居はわずかしか残っていない。貴重な文化財である。
実は、この鳥居の隣には、この地域では有名なうどん屋「がいな製麵所」がある。私もがいな製麵所で何度か食事をしたが、来るたびにこの古い鳥居が気になっていた。今回初めてまじまじと見たが、こんなに古いものとは知らなかった。
随身門は、19世紀中ごろの建物である。
随身門を入ってすぐ目の前にある拝殿は、桁行七間の堂々たる建物である。
拝殿は、文化二年(1805年)に建てられた。
本殿は、七間社流造で、七社立会神事の際に、外陣に7つの神輿が並べられるように作られた巨大な本殿である。
本殿は、安政三年(1856年)の建立である。確かに大きな本殿で、廣峯神社本殿並みの大きさだ。
日吉神社の随身門、拝殿、弊殿、本殿は、七社立会神事が始まった中世の祭礼空間を色濃く残すものとして、加西市指定文化財となっている。
史跡巡りをして感じるのだが、ほとんど参拝客のいない神社仏閣でも、著名な神社仏閣より好印象を抱く場合がある。
どんな史跡にも、伝えられてきた由来があるものである。人々の様々な願いや思いが込められた由来あるものを蔑ろにすることは出来ない。
史跡に上下はつけられないとしみじみ思う。