兵庫県加西市玉野町にある山伏峠には、兵庫県指定文化財の2基の石棺仏がある。
道側の1基は、高さ2.25メートル、幅1.24メートル、厚さ0.4メートルの大きな家型石棺に、蓮華座上の阿弥陀坐像を彫刻している。
奥にあるもう1基は、高さ2.1メートル、幅1.05メートル、厚さ0.18メートルの長持型石棺の蓋石に、阿弥陀坐像と6体の化仏を彫刻している。
製作されたのは、南北朝時代初期とされている。
山伏峠の石棺仏の前の道は細い道で、今はサイクリングロードとして自動車の通行が禁止されている。そのためか、昔の薄暗い峠道の雰囲気を残す寂とした道に感じた。
峠道を見守るように設置された石棺仏を、昔の人はどんな思いで見たことだろう。山賊や追剥が跋扈する時代のこと故、昔の通行人は峠を歩きながら石棺仏を見て、ほっと一息ついたのではないか。
さて、加西市玉丘町には、国指定史跡玉丘古墳群がある。
玉丘古墳群は、現在は広々とした史跡公園として整備され、私が訪れた時も、ウォーキングや犬の散歩を楽しむ人々が往来していた。
この古墳群の中で最大の玉丘古墳は、全長109メートルの前方後円墳で、兵庫県下第7位の大きさであり、北播磨では最大の古墳である。
玉丘古墳は、5世紀前半の築造とされ、年代的には仁徳天皇陵と同時代のものである。おそらく播磨国造家の有力者の墓だろう。
私は、玉丘古墳の周辺を歩いた。航空写真では、周濠内に古墳に渡る小道のようなものが写っているが、見つけることが出来なかった。
玉丘古墳は、明治17年に盗掘されていて、石棺は破壊されているそうだ。
玉丘古墳は、年代的には5世紀前半のものだが、奈良時代の「播磨国風土記」には、この古墳にまつわる伝説が記載されている。
第23代顕宗天皇、第24代仁賢天皇は、第17代履中天皇の子・市辺押磐皇子の子である。同母兄弟であった。仁賢天皇が兄で、顕宗天皇が弟である。
顕宗天皇は幼名を袁奚(おけ)、仁賢天皇は幼名を意奚(おけ)と言った。
第21代雄略天皇は、即位する前に、自分のライバルとなる皇子を皆殺害して帝位についた。雄略天皇の従兄だった市辺押磐皇子も、雄略天皇により殺害された。
市辺押磐皇子の子の袁奚、意奚は、雄略天皇から逃れるため、播磨国美嚢郡(現兵庫県三木市)の志染(しじみ)の岩室に隠れ住んだ。
播磨国で、この2人の皇子は、播磨国造許麻(こま)の娘である根日女(ねひめ)に出会い、2人同時に根日女に恋をする。根日女は婚姻を承諾するが、2人の皇子がお互いに譲り合っているうちに、根日女は病没してしまう。
それを伝え聞いた2人の皇子は、「朝日夕日隠れぬ地に墓を造り、その骨を収め玉をもって飾れ」と命じて、玉丘古墳を造らせたという。
雄略天皇の子の第22代清寧天皇は、自分に子がいなかったため、皇統を継ぐ者を探したところ、播磨国に袁奚、意奚の兄弟が隠れ住んでいることを知り、喜んで2人を迎えて皇統を継がせた。
袁奚、意奚兄弟が播磨国に逃れていたのは、5世紀後半のことなので、古墳の築造年代からすると、玉丘古墳が根日女の墓ということはないだろう。
しかし、玉丘という優美な名前からすれば、根日女の墓だとした方がロマンを感じる。
玉丘古墳の周りには、陪塚と呼ばれる、玉丘古墳の被葬者の関係者の墓と思われる古墳が点在する。
クワンス塚古墳と呼ばれる円墳は、周濠を巡らした綺麗な円形で、雰囲気のある古墳であった。
玉丘古墳公園の入り口近くには、加西市佐谷町にあった愛染古墳が移築復元されている。7世紀半ば築造の円錐状の円墳で、内部の石室と石棺も外から見ることが出来る。
「播磨国風土記」が書かれたのは、玉丘古墳が作られてから約300年後である。
その間でも、玉丘古墳の本来の被葬者が誰か分からなくなってしまった。
伝承というものは、こんな風に曖昧なものであるが、かといって根日女が実在しなかったとも言い切れない。
伝承は伝承として、それなりに意味を持っている。フィクションであったとしても、それが人々の間で言い伝えられてきたことは「事実」である。人々が言い伝えた事実も、それはそれで尊重しなければならないと思う。