周遍寺密蔵院 清慶寺

 北条鉄道網引駅のすぐ近くには、周遍寺密蔵院がある。ここは高野山真言宗の寺である。

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周遍寺密蔵院

 密蔵院の楼門の前の広場に、観音像を中心にして、古い墓石などが集められた一角があった。

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墓石群

 その墓石群に向かって右側の手前に、古い石棺仏がある。石棺仏とは、古墳に納められていた石棺を石材として転用して作られた仏像である。

 播磨は、石棺仏の宝庫と言われている。全国に約200基ある石棺仏の約9割が播磨地方に集中している。播磨の中でも、旧加東郡加西郡加古郡印南郡に特に多い。

 その理由はよくわかっていないが、これらの地方は、竜山石や高室石、長石の産地で、小型の古墳にも石棺が使用されている。

 石棺仏の材料である石棺が元々豊富にあったということだろう。

 石棺仏の制作年代は、鎌倉時代から室町時代までに限定されている。

 密蔵院の石棺仏は、阿弥陀如来である。鎌倉時代の制作と言われている。

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阿弥陀石棺仏

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 正面から見ても、石棺仏だとは分からない。背後から見たら、石棺の上蓋を使って造られたものだと分かる。

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石棺仏の裏

 元々古墳に使われていた古い石棺を使った石仏なので、なんとも古拙な味わいがある。しみじみといいものである。

 さて、加西市中野町にある浄土宗の寺院、南帝山清慶寺に行く。

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南帝山清慶寺

 ここには、後南朝の皇子の墓とされる南帝塚がある。

 日本の皇室が南北に分かれて争った南北朝の争乱も、明徳三年(1392年)の明徳の和約によって一応終焉となった。

 南北それぞれの皇統から交替で天皇を出すという両統迭立(りょうとうていりつ)の約束の下、両朝が合体した。

 しかし、北朝側が、後小松上皇の次に皇子の称光天皇を即位させたことに、南朝系の後亀山上皇が反発し、再び南朝の旗を上げて挙兵した。明徳の和約の後に再起した南朝が、後南朝である。

 谷崎潤一郎が、後南朝の歴史にロマンを感じて、歴史小説を書くために、吉野に取材に訪れた経験から書いたのが、「吉野葛」である。

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清慶寺

 後南朝は、嘉吉三年(1443年)に、皇位継承の正当性の証である三種の神器を宮中から奪い取ろうとし、剣と神璽を奪い取る。禁闕の変である。

 その後剣は北朝側に取り返されるが、神璽は後南朝が奥吉野に隠匿したままだった。

 ここで登場するのが、嘉吉の変で滅ぼされた赤松家の旧臣たちである。彼らは、室町幕府から、神璽を後南朝から奪い返せば赤松家を再興させるという約束を取り付け、後南朝に偽って仕え、神璽のありかを1年かけて探る。

 そして長禄元年(1457年)、赤松旧臣は、後南朝の自天王(尊秀王)、忠義王という二人の皇胤を殺害し、神璽を奪い去る。

 しかし、吉野の民の反撃にあい、自天王の首と神璽は後南朝に取り返される。

 翌長禄二年に、赤松旧臣は再度吉野を襲撃し、神璽を奪い去る。これが長禄の変である。

 清慶寺境内にある南帝塚の上には、宝篋印塔が建つが、表面に「仁尊親王御陵」と彫られている。

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南帝首塚

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 しかし、調べてみても、この仁尊親王という人が誰なのかが分からない。

 また、後醍醐天皇御曽孫と彫られているが、後醍醐天皇の曽孫の世代は、長禄より30年近く前に亡くなっている。

 宝篋印塔の側面には、長禄三年八月二五日と刻まれているが、長禄の変の翌年である。この年に、なぜこのような宝篋印塔が建ったのかが分からない。

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 由来を教えてもらいたいものである。

 境内には、その他に、正和三年(1314年)の銘を持つ石棺の板碑がある。家形石棺蓋石を使用して造られたものである。

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板碑

 板碑には、阿弥陀三尊の種子が薬研彫で彫られ、その上に三面の宝珠が刻まれている。種子(しゅじ)とは、密教で、仏を象徴する一音節の呪文(真言)を指している。

 板碑は、兵庫県指定文化財である。

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板碑の側面

 境内奥には、兵庫県指定文化財の石造宝篋印塔がある。

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石造宝篋印塔

 この石造宝篋印塔には、東西南北四面に仏坐像が彫られている。

 また、嘉暦二年(1327年)十一月七日の銘が刻まれている。四方に仏坐像を刻む手法は他に類例がない珍しいものである。

 鎌倉時代から室町時代にかけて、石棺仏を造るため、あちこちの古墳から石棺が掘り出されたものと思われる。どうせ造るなら、新しい石材から造ればいいものをと思うが、その時代の人たちがそうしなかったのにも何かの理由があるのだろう。

 その時代に自分がいて、石仏を造るとしたらどうしたか、と想像を膨らませるのも楽しいものだ。