永澤寺の参拝を終え、次なる目的地である兵庫県三田市藍本にある酒垂(さかたれ)神社を訪れた。
酒垂神社の境内から東に約300メートル行くと、田んぼの中に鳥居が建っている。
この鳥居は、応永二年(1395年)に建立された酒垂神社の一の鳥居である。
在銘の鳥居としては兵庫県最古の鳥居である。
私が今まで史跡巡りで目にした鳥居の中でも一番古い。
鳥居の島木の下面には、「応永二歳乙亥三月 願主丸部貞国」の銘文が彫られている。
島木の下にある貫(ぬき)の下面には、「元禄二歳(1689年)己巳三月上旬 貫中興」と彫られている。
恐らく貫が折損したので、元禄二年に取り換えられたのだろう。
酒垂神社鳥居は、兵庫県指定文化財となっている。貫が取り換えられていなかったら、国指定重要文化財になっていたことだろう。
今まで600年以上の星霜を経て大地に建つ鳥居を見て、心強さを覚えた。
さて、一の鳥居の先には、境内まで続く昔の参道と思われる道が残っている。
参道沿いに並んでいた松並木の名残と思われる松も残っている。
今では、旧参道の途中をJR福知山線が横断しているが、旧参道はその先も続いている。
旧参道の先には、酒垂神社の二の鳥居と随神門、本殿が見える。
酒垂神社の背後にある山は、標高592メートルの虚空蔵山である。山頂近くに虚空蔵菩薩を祀っている。
この山上に、酒垂神社の社名の由来となった酒垂岩がある。
貞観年間(859~877年)に、この地方に悪疫が流行った時、素戔嗚尊を名乗る一童子が村に現れ、虚空蔵山中の霊水を飲むことを勧めた。
村人は山に登り、山中の霊窟から自然に滴り落ちる酒を発見した。
村人が病人にその酒を飲ませると、たちまちに病が癒えた。村人は、山の麓に社を建てて、岩山大明神として祀った。
その後、長暦二年(1038年)に都で悪疫が流行した。
後朱雀天皇は、悪疫の流行に心を痛めたが、ある夜天皇の夢枕に仙人が現れ、この霊水を病人に服用させることを勧めた。
天皇が虚空蔵山の霊水を取り寄せて病人たちに飲ませると、病は治ってしまったという。
天皇は、この霊験あらたかな神を敬い、社号を酒垂神社に改めることを命じた。
この霊水が滴り落ちる酒垂岩は、今も虚空蔵山にあるという。
随身門には、近世和算の碩学、下垣内市左衛門が文化八年(1811年)に奉納した、「等法二條解」と題する算術の問題と答えを書いた額の写しが掛かっている。
図の扇面に描かれた円の径を算出する問題と答えが漢文で書かれている。
日本は昔から算術の盛んな国だった。
随身門を潜ると、石垣の上に本殿が建つ。本殿前には、高い杉が生えている。神寂びた光景だ。
本殿は、銅板葺、三間社流造で、正面に千鳥破風と唐破風が付いている。
そう古い建物ではなさそうだが、彫刻に見るべきものがあった。
また境内に江戸時代のものと思われる宝篋印塔と無縫塔があった。
無縫塔は、僧侶の墓石に使われることが多い。
恐らく明治の神仏分離以前には、酒垂神社を管理する別当寺があったのだろう。
神仏分離によって、寺が廃絶となり、寺にあったこの宝篋印塔と無縫塔だけが神社境内に移されたのだろう。
史跡巡りを続けて気づいたが、寺社の創建伝説には、山中にある岩に神仏の霊力を感じて山中や麓に寺社を建てたという話が多い。
確かに私も山歩きをしていて大きな岩を目にすると、新鮮な驚きに打たれる。
日本で目にする岩は、何億年、数千万年前の火山活動で形成された溶岩が固まって地上に顔を出したものが多い。
人間が作った史跡など遥かに及ばない過去に形成された岩石に、人が畏敬の念を抱くのは、必然であろう。