北条の五百羅漢

 住吉神社、酒見寺から北に歩いて、北条小学校と北条中学校の間の道を抜ける。当日は、小学校のグラウンドで少年野球の試合が行われていた。

 学校を過ぎると、右手に天台宗の寺院である羅漢寺が見えてくる。

 この寺にあるのが、北条の五百羅漢と呼ばれる石仏群である。

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北条の五百羅漢

 地元で採れる高室石(凝灰岩)の角柱状石材を利用して彫られた羅漢立像等459体の石仏が並んでいる。

 石仏の中心は、釈迦三尊像とそれを挟むように立つ大日如来像と阿弥陀如来像である。

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五尊像

 これらの石仏を、いつ、誰が、何のために立てたかは不明である。

 南朝に味方したために赤松氏に滅ぼされた酒見社(住吉神社)の神主山一族の供養塔ではないかとか、天正元年(1573年)ごろ小谷城主赤松祐尚が戦死者の供養のために立てたとか、寛文年間の酒見寺再興に合わせて造られたとか、様々に言われているが、よく分かっていない。

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 素朴で古拙な味わいのある石仏群である。表情も少しづつ違いがあって、親や子に似た石仏がこの中にあると言われている。

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 よく見ると、手に扇子や箸のようなものを持っている石仏がある。

 石仏群の左側には、来迎二十五菩薩の石仏が並ぶ。

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来迎二十五菩薩

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阿弥陀如来

 来迎二十五菩薩とは、弥陀来迎の時に阿弥陀如来に従ってくる菩薩たちで、人々を必ず西方の極楽浄土に導いてくれる菩薩である。

 阿弥陀如来像は、背後から後光が射し、足元に蓮華座がある。

 境内には、青面金剛龍王を祀る庚申堂がある。

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庚申堂

 羅漢寺は、大正時代には荒廃しており、石仏群も倒壊、散乱していた。大正15年に、地元の人々の努力で、倒れていた石仏を並べ、御旅町にあった薬師堂を移築して羅漢堂とし、庚申堂を建てて寺院を再建した。

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本堂(羅漢堂)

 本堂(羅漢堂)には、薬師如来が祀られている。

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薬師如来

 北条の五百羅漢は、平成30年に、兵庫県重要文化財に指定された。五百羅漢の造立理由は明らかになっていないが、やはり戦乱が終息した江戸時代に入って、地元の誰かが戦乱や災害で亡くなった人々の供養のために立てたものではないかと思う。

 加西市北条町から西に行った吸谷町に慈眼寺観音堂がある。ここは、白鳳時代に建立された廃寺の跡でもある。吸谷廃寺という。

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吸谷廃寺(現観音堂

 ここからは、白鳳時代のものと思われる古瓦が多数発掘されている。廃寺の土壇は失われているが、当時の礎石は境内に集められ、庭石として利用されている。

 また、境内の片隅に、兵庫県指定文化財である石造塔婆がある。

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石造塔婆

 この石造塔婆には、蒙古襲来後の弘安六年(1283年)の銘があり、「結衆建立之」と彫られているらしい。結衆とは、何者なのだろうか。

 この塔婆は、四面に蓮華座が彫られ、その上に種子が薬研彫にされている。

 今に伝わる石造層塔には、蒙古襲来前後の時代に造られたものが多い。なぜこの時代に、多数の石造層塔が建てられたのだろう。蒙古襲来という時代の不安が関係しているのだろうか。

 石造物は、数ある素材の中で最も風化しにくいものである。石造の見事な芸術作品を造れば、目的や意味は時代と共に見失われても、石造物自体は千年後も人々を魅了し続けることが出来るだろう。