和久寺廃寺 下山古墳群

 天照玉命神社から東に車を走らせて、福知山市和久寺にある和久寺廃寺の跡に赴いた。

 和久寺の集落の中央に鹿島神社がある。神社の北側に公園があって、その公園のフェンスに和久寺廃寺の説明板が設置されている。

 「京都府の歴史散歩」下巻には、粟島神社の境内を中心とした1haの範囲が和久寺廃寺であると書いてあるが、この粟島神社鹿島神社の間違いである。

和久寺廃寺の説明板

 和久寺の集落の田畑からは、昔から古い瓦や土器が発見されてきた。

 また鹿島神社の境内に、塔心礎とも思える礎石もあったことから、ここに廃寺があったのではないかと言われていた。

 昭和57~59年にかけて、鹿島神社周辺の発掘調査が行われた。その結果、塔跡基壇や築地跡、掘立柱建物跡が発掘され、ここに寺院があったことが分かった。

発掘の状況

伽藍配置図

 発掘された廃寺は、和久寺廃寺と名付けられた。

 発掘された瓦から、創建は奈良時代前期で、播磨、但馬地域の廃寺から発掘された瓦の文様によく似ているとのことである。

 塔跡基壇は、縦横約16メートルで、鹿島神社の南西側にあった。その場所は、発掘調査後、元の田んぼの状態に戻された。

塔跡基壇があった場所

 鹿島神社の境内には、塔心礎と思われる礎石や、廃寺の礎石と思われる石が置かれている。

鹿島神社

鹿島神社本殿

 鹿島神社の境内の大きさと、先ほどの廃寺の伽藍配置図を見比べると、和久寺廃寺が小規模な寺だったことが実感できる。

塔心礎

柱穴

礎石群

 ここにあった寺が和久寺という名前だったかは分からない。だが和久寺という地名が残っていることを思うと、そうだったのかも知れない。

 地名は、案外その地の歴史を混じり気なしに伝えているものである。

 さて、和久寺の集落の北側には、低い山がある。下山と呼ばれる山であるが、山中には古墳が点在する。下山古墳群という。

 集落の北側に墓地があるが、その墓地の中の道を北に歩いていくと、突き当りの東側に円墳が見えてくる。

下山18号墳

周濠の跡

 下山古墳群を代表する下山18号墳である。

 下山18号墳は、直径約10メートルの円墳である。古墳の周辺が低くなっており、周濠の跡であると思われる。

 下山古墳群は、古墳時代後期の古墳群で、京都府下で最多の古墳数を誇る古墳群である。

墳丘上

 墳丘上に登ってみたが、埋葬施設らしきものは見当たらなかった。

 古墳時代は、第36代孝徳天皇が大化二年(646年)に出した薄葬の令により終焉を迎えた。

 当時の古墳は、死者を弔うための祭祀を行う場所であった。その古墳の造営を禁止された豪族たちが築き始めたのが寺院であった。

 孝徳天皇は、古墳の造営を禁止する一方で、寺院の建立を国を挙げて進めた。

 死者を弔う施設である古墳の造営を禁止された豪族に、新たな葬祭の施設として仏教寺院の建設を勧めたわけである。

 今までの史跡巡りで度々触れてきたが、古墳時代後期の古墳群の近くに、白鳳時代から奈良時代にかけて建てられた寺院の廃寺跡が存在する例は多い。

 古墳から仏教寺院へと移り変わる時代には、我が国全体を、古代の宗教改革と言ってもよい大変化が襲っていたと言えるのではないか。