森尾古墳跡から次なる目的地の中嶋神社に赴いた。中嶋神社は、兵庫県豊岡市三宅に鎮座する。
駐車場に車をとめ、巨大な赤鳥居を潜って参道を歩き、境内に入った。
二の鳥居の手前には、何故かディズニーアニメに登場する七人のこびとの石像が並んでいた。
中嶋神社の祭神は、天日槍命の四世の孫、田道間守(たじまもり)命と鳥取部連(とっとりべのむらじ)の祖である天湯河棚(あまのゆかわだな)神である。
田道間守命は、古代豪族三宅連(みやけのむらじ)の祖先と言われている。神社がある豊岡市三宅は、三宅連が拠点とした場所である。
境内には、田道間守命生誕地の石碑が建っている。
田道間守命は、第11代垂仁天皇に仕えた人物である。記紀によれば、垂仁天皇の命により、常世の国に不老長寿の薬である非時香果(ときじくのかぐのみ)を取りに行った。
だが田道間守命が非時香果を日本に持ち帰ると、既に垂仁天皇は崩御していた。
田道間守命は、第12代景行天皇により、垂仁天皇陵の近くに葬られたという。奈良市にある垂仁天皇陵の周濠の中に、小さな島のような塚がある。これが田道間守命の墓だとされている。
中嶋神社の名は、田道間守命の墓が濠に浮かんだ中島のようであるところから来ている。
ところで田道間守命が持ち帰った非時香果は、「古事記」によれば橘の実とされている。橘の実は、古くから菓子の最高級品とされているため、今では田道間守命はお菓子の神様とされている。
そのため、中嶋神社には、全国の菓子商が奉納した石碑や玉垣があり、境内で菓子祭などのイベントが行われている。
拝殿は、半蔀のある銅板葺の建物である。
拝殿の奥にある本殿は、棟札により応永三十年(1423年)から正長元年(1428年)にかけて建てられたものだと分かっている。
本殿は、檜皮葺の流造である。通常の流造は、正面が一間か三間かのどちらかである。中嶋神社の本殿は、建物正面の真ん中に柱が来る二間社流造という珍しい様式である。
本殿は、室町時代中期の建築ながら、最近修復されたのか、柱や梁の朱色も鮮やかで、檜皮葺も瑞々しく、美しい姿をしていた。
中嶋神社本殿は、建築年代も明確で、規模も大きいことから、国指定重要文化財になっている。
「兵庫県の歴史散歩」下巻によれば、中嶋神社周辺からは、奈良時代の軒瓦などが出土したそうだ。これらの瓦は、神社の南の丘にある豊岡市教育委員会文化財室収蔵庫に収蔵されているとのことだった。
神社の南にある丘の上に、神美台スポーツセンターがあるが、その奥に建つ豊岡市立博物館・科学館出土文化財管理センターが、「兵庫県の歴史散歩」下巻が触れている施設であると思われる。
しかしこの施設は、展示施設としては今は閉館しているようだ。
中嶋神社の参拝を終え、豊岡市清冷寺(しょうれんじ)にある真言宗の寺院、医王山東楽寺(とうらくじ)を訪れた。
この寺院は、弘仁年間(810~824年)にこの地を訪れた弘法大師空海が、出石川を挟んだ向かい側の加陽(かや)の地に創建したという。江戸時代初期に現在地に移転したという。
加陽の地名は、朝鮮半島の伽耶からの渡来民が多く居住していたことに由来する。
東楽寺には、延長年間(923~931年)の再興時に造立された国指定重要文化財の四天王立像4体や、本尊の聖天像、十一面観音像が祀られている。
四天王は、仏法の守護神である持国天、増長天、広目天、多聞天のことだが、東楽寺の四天王立像は、平安時代中期の作風を伝えるヒノキの一本造りの優美な像であるらしい。
本堂の奥には、鉄筋コンクリート製の収蔵庫がある。ここに国指定重要文化財の四天王立像や聖天像が安置されているのだろう。
中嶋神社の祭神の田道間守命にしろ、加陽の住民にしろ、朝鮮半島からの渡来民の子孫である。古代但馬の発展に、渡来民が寄与した要素は大きいと思われる。
古代日本に寺院建築や仏像制作の技術を伝えたのは、朝鮮半島からの渡来民である。
日本人は、移民を嫌がる民族と言われるが、飛鳥時代や奈良時代の日本列島の住民の中で、渡来民が占める割合は高かったと思われる。
古代の日本が移民国家だったという視点を持たないと、古代日本の理解は出来ないものと思われる。