林田

 姫路市の北西部に、林田という地域がある。昭和42年に姫路市に合併されるまで、林田町は独立した自治体だった。

 ここは、江戸時代に林田藩建部家が領していた。石高は1万石で、小藩である。小藩ながら、林田藩建部家は、元和三年(1617年)から明治まで領地を維持し続けた。

 姫路市林田町中構に、林田藩の大庄屋であった、三木家の旧居がある。三木家住宅である。

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三木家住宅長屋門

 三木家は、元々赤松家の家来で、英賀城の城主であった。天正八年(1580年)、秀吉が英賀城を攻め落とした時、城主の弟の三木定通が林田に逃亡して、帰農した。

 三木家は、聖岡に家を建てたが、建部政長が大坂の陣の功により、元和三年に林田藩主となった時に、聖岡に陣屋を建てたため、三木家は今の三木家住宅のある地に家を移した。

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三木家住宅主屋

 現存する三木家住宅は、17世紀中ごろの建築と考えられている。老朽化していた三木家住宅は、平成10年から平成21年まで修復工事が行われ、平成22年7月から一般公開されている。主屋の屋根は、茅葺と瓦葺が混在する珍しいものだ。

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土間の天井

 土間の天井には、太い梁が交差する。天井には、火災防止のため、梁に縄を巻いて、漆喰に砂を混ぜたものを塗った仕掛けが成されている。

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表台所

 表台所から室内に入ると、地元の螺鈿の作家による作品展示会が開かれていた。また、室内には、林田藩時代に数十年間焼成されたが、今は作られていない林田焼が展示してあった。

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林田焼

 この林田焼、作られた期間が短いので、現存するものが少なく、幻の焼き物とされている。第三代藩主建部政宇(まさのき)が地場産業奨励のため、窯を作って焼成させたという。一説によると、京焼の野々村仁清が林田に来訪して指導したと言われている。そういえば、どことなく京焼の風味がある。

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三木家住宅庭園

 さて、三木家住宅から北に行くと、藩校敬業館がある。寛政六年(1794年)、林田藩七代目藩主建部政賢により建てられたが、文久三年(1863年)に火災で焼失。その後すぐに再建された。兵庫県内に唯一残る藩校の建物である。

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藩校敬業館

 ここで林田藩士の若者が勉学に励んでいた。今は、敬業館のすぐ隣に林田中学校があり、現代の若者が勉学に励んでいる。

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敬業館玄関

 藩校の北側には、林田藩の陣屋跡のある聖岡がある。

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聖岡

 陣屋とは、一般的に三万石以下の城を持たない大名が藩庁として使った屋敷のことである。

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林田陣屋復元図

 林田藩は城を持てない小藩だったので、陣屋で執務をした。今林田藩陣屋跡は、梅が植えられて梅林になっている。

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陣屋跡の梅林

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林田藩陣屋跡

 陣屋の痕跡として、石垣が残るのみである。

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林田藩陣屋跡石垣

 陣屋跡の東隣には、歴代建部侯を祀っていると思われる建部神社がある。

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建部神社

 江戸時代の西播磨は、姫路藩龍野藩赤穂藩がほとんどの領地を占めていた。そのはざまで、元和から廃藩置県まで、250年に渡り藩主として生き延びた林田藩建部家は、知恵の豊かな家だったのではないか。

 林田藩陣屋跡は、全く観光地化されていない。週末や祝日に、観光でここを訪れる人は皆無に等しいだろう。地元も観光資源として売り出そうともしていない。だからこそ、しみじみと過去の林田藩のことに思いを馳せることができる。

 歴史は、静けさの中で感じたいものだ。