東楽寺の参拝を終えて北上し、豊岡市街に入る。
豊岡は但馬最大の町だが、空襲を受けていないためか、古い町並みがあちこちに残っている。町割りにも古さを感じる。江戸時代から途切れることなく継続して発展してきた町だと感じる。
豊岡市京町にある標高約49メートルの神武山は、豊岡城があった山である。
この山は、明治5年に神武天皇遥拝所が設置されてから、神武山と呼ばれるようになったが、それまでは城山と呼ばれていた。
15世紀に山名宗全が城山に築城し、配下の垣屋氏に守らせた。戦国時代に入って、垣屋氏が主家を乗り越えて但馬の実力者になると、豊岡城は垣屋氏の但馬支配の拠点になった。
豊岡城跡へは、豊岡市立図書館の南側の登り口から登っていける。
天正八年(1580年)の秀吉による但馬占領以後、秀吉配下の武将が豊岡城の城主となった。
慶長二年(1597年)に杉原長房が城主となってからは、杉原氏の時代が暫く。
承応二年(1653年)に杉原家が断絶したが、城郭の遺構は残された。
寛文八年(1668年)、京極氏が豊岡藩主となり、城山の麓に陣屋を築いたが、豊岡城の遺構はそのまま残されたという。
神武山は、標高約49メートルの低山なので、登り始めてすぐに山上の本丸跡に至った。今は広々とした公園になっている。
本丸跡から南を眺めれば、豊岡市街と豊岡平野の南側を一望できる。
本丸から一段下がると、広い空き地があるが、ここが笠の丸の跡である。
さて、寛文八年(1668年)に豊岡藩3万石の領主として入国した京極高盛以降、幕末まで京極氏9代が豊岡を治めた。
神武山の北側には、藩主が住んだ京極家屋敷跡が残っている。
表側からは門と塀しか見えないが、グーグルマップで見ると、この塀の向こうに広壮な屋敷があるようだ。公開はされていない。
京極家屋敷跡の北側には、豊岡市立図書館があるが、ここが豊岡藩の陣屋跡である。
平成8年から9年にかけて、図書館建設のための工事を行ったところ、地表面の約2メートル下から江戸時代後期の建物跡が見つかり、更にその数十センチメートル下から江戸時代初期の建物跡が見つかった。
その下には織豊時代の建物跡や遺物が残っていたそうだ。
発掘調査の結果、かなり昔から、この地に豊岡の政庁があったことが分かった。
明治維新後の明治4年に、豊岡陣屋跡に豊岡県庁が出来た。豊岡市立図書館の東側には、旧豊岡県庁の正門が残されている。
この門は、明治3年に久美浜県(現京都府の北部)の県庁の正門として建設された。
明治4年に豊岡県と久美浜県が合併した際に、久美浜からこの地に正門と庁舎が移築された。
明治9年に豊岡県が兵庫県と京都府に分割された後も、豊岡県庁跡に設置された城崎郡役所の正門として使用された。
旧豊岡県庁正門は、高さ約7.6メートル、幅約8.4メートル、屋根部分幅約13.2メートルで、総欅造りの豪壮な門である。
この門は、豊岡県庁があった時代の唯一の遺構である。役所の建物が城郭や陣屋の建物に近かった明治初期の遺物である。
豊岡の町は、豊岡城や豊岡陣屋を中心に発展してきた。
江戸時代の但馬の小藩の名残を、ここで感じることができた。