有年 前編

 赤穂市北部の国道2号線沿いに、有年(うね)という地域がある。ここは、2つの古代遺跡が発掘された地域である。遺跡は、今は公園となっている。

 そのうちの一つが、東有年・沖田遺跡公園である。

 ここは、縄文時代(約4000年前)から室町時代(約600年前)にかけての集落遺跡である。

 東有年・沖田遺跡公園からは、弥生時代後期の竪穴住居7棟、古墳時代後期の竪穴住居22棟と高床建物1棟の跡が見つかった。

 公園南側には、弥生時代の竪穴住居が2棟復元されている。

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手前が2号住居、後ろが5号住居

 その内5号住居と言われる建物は、弥生時代後期(西暦100年ころ)のものとしては、一般的な大きさである。2号住居は、直径12メートルで、当時としてはひときわ大きい。有力者が住んでいたと思われる。

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2号住居入口

 2号住居の中に入ると、中央に4本の柱が立っていて、建物を支えている。その中央に、炉がある。土器をここに据えて、煮炊きをしたのであろう。

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2号住居の内部

 私は、不思議とこの柱を見て、神殿のような厳かさを感じた。木には、人を圧する何かがある。

 新宮宮内遺跡の住居は、約2100年前のもので、この住居は約1900年前のものである。200年の間の建物の進歩はあまり見られないが、大きさではこの2号住居は新宮宮内遺跡の竪穴住居より圧倒的に大きい。

 公園の北側には、古墳時代後期の建物が復元されている。概ね1500年前の建物の復元である。

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古墳時代の建物群

 弥生時代の竪穴住居と異なるのは、円形ではなく、方形であるということだ。

 最大の違いは、内部に入ると分かった。

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4本の柱と竈

 円形よりも方形の建物の方が、スペースを有効に使うことが出来る。方形に屋根を形作るために、4本の柱が屋根を支えている。

 そして、弥生時代との最大の違いは、竈の存在である。建物の北側に竈が据えられている。

 弥生時代の竪穴住居のように、中央に炉があると、スペースが使いづらい。この古墳時代の建物のように、端に竈があると、あとのスペースは自在に使える。

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建物北側に据えられた竈

 竈中央の穴に須恵器や土器を据えたのだろう。竈の構造部の半分は建物の外に出ていて、竈からでた煙は、外に排出されるようになっている。古代の生活革命である。

 昔、竈には竈の神様がいると言われていたが、古代人がそう思ったのも何となく分かる気がする。

 さて、古墳時代の集落にあった高床建物は、集落にとって大事な食糧を保管する場所である。

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高床建物

 高床にすれば、湿気が籠らず、害獣も入りにくい。中は丸太敷で、どことなく南洋の建物のようである。

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高床建物の内部

 日本人には、南洋の民族の血が混じっていると言われているが、それも誇らしい気がする。

 さて、次なる目的地、有年原・田中遺跡公園に行く。この遺跡では、西暦100年ころの有力者の墳丘墓が2つ発掘された。今、それが復元されている。

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1号墳

 1号墳は、円形で、その周囲に周溝が掘られている。墳丘に至るために、陸橋が造られている。

 また、墳丘部の西側に、方形の突出部が付けられている。

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墳丘部に付いた突出部

 この突出部は、祭祀を行う場所だったらしい。前方後円墳の前方部も、祭祀を行った場所である。ということは、この遺跡の突出部付き墳丘墓は、前方後円墳の祖型と言えるのではないか。

 前方後円墳は、大和盆地が発祥の地である。今の皇室と日本国政府につながるヤマト王権が、前方後円墳を最初に作ったと思われる。有年の墳丘墓が前方後円墳の祖型ならば、有年付近にいた勢力が大和盆地に進出して、ヤマト王権になったと考えられないだろうか。こういう風にいくらでも想像をたくましく出来るところが、文字史料がない古代史の面白いところだ。

 1号墳の墳丘部の上には、当時死者を弔うために備え付けられていた装飾壺と装飾器台が復元されている。

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墳丘部の上の特殊器台

 写真のように、装飾器台の上に装飾壺を載せている。装飾器台、装飾壺のセットは、西暦150年~200年ころに、特殊器台、特殊壺のセットに発展し、吉備地方(岡山周辺)の墳丘墓に飾られるようになる。特殊器台、特殊壺は、最終的に大和盆地の古墳に飾られるようになり、更に埴輪に発展する。

 古事記日本書紀の神武東征伝承では、神武天皇は、大和盆地に入る前に、吉備地方を拠点としたとされている。特殊器台、特殊壺が、吉備から大和に伝わったことと神武東征伝承は一致する。

 丁度、西暦150年から200年の間は、「魏志倭人伝」が伝える倭国大乱のあったころである。

 魏の使いが倭国で聞いた倭国大乱とは、吉備の勢力が大和盆地を征服した時の戦いのことではなかったか。

 前方後円墳と特殊器台、特殊壺の祖型のある有年は、どういう勢力が当時いたかは分からないが、こののち約500年続く墓の流行の発祥の地とは言っていいのかも知れない。

 文字がない時代のことを、発掘された物だけから推理するのも面白い。