有子山から下山し、昼食に出石蕎麦を食べた。腹ごしらえをしてから、歩いて有子山稲荷神社の東にある諸杉神社を訪れた。
祭神は、天日槍(あめのひぼこ)の嫡子である多遅摩母呂須玖(たじまもろすく)神である。
「日本書紀」によれば、天日槍は、垂仁天皇三年に新羅から但馬に渡来した新羅国の王子とされている。
諸杉神社の創建年代は未詳であるが、「延喜式」に記載のある古社で、過去には出石町水上(みながい)に鎮座していた。
山名氏が天正二年(1574年)に此隅山から有子山に城を移した際に、諸杉神社もこの地に遷座したという。
歴代出石城主の崇敬が厚く、仙石氏が藩主のころは、年始と参勤交代からの帰城の際に、藩主自らが参拝したという。
寛保二年(1742年)に仙石政辰が社殿を改築したが、その社殿は明治9年の火災で焼失してしまった。
明治17年に今の本殿、拝殿が再建された。
本殿は、唐破風と千鳥破風がついた入母屋造である。
唐破風下に、力士が軒を支えていたり、男が鷲と戦っていたり、ユニークな彫刻が施されている。
本殿から拝殿に続く、屋根のついた長い回廊も面白い。
天日槍の一族は、古代の但馬開発に力を注いだ一族なのだろう。そのため、一族は、神々として地元で長い間崇敬されてきた。
諸杉神社から東にかけて、有子山沿いに「歴史と学びの小径」が続いている。
出石が生んだ文化人ゆかりの地や寺社を結ぶ小径である。
諸杉神社から歴史と学びの小径を東に行くと、出石藩の藩校弘道館の跡地、弘道館跡公園がある。
藩校弘道館は、安永四年(1775年)に仙石政辰が藩儒桜井篤忠に命じて設立した藩士の教育機関で、50人余りの職員が漢学、和学、兵学、剣槍を教えた。
弘道館と言えば、同名の水戸藩弘道館が有名である。水戸藩弘道館は、徳川斉昭が天保十二年(1841年)に開設したが、出石藩弘道館はそれより66年前に開設されている。
出石藩弘道館は、寛政の改革の際に各藩が設立した藩校よりも早く開設された藩校である。
出石藩は、教育熱心な藩であったようだ。今後紹介する出石出身の偉人は、この土壌から巣立った。
弘道館跡公園には、弘道館跡を示す石碑が建つ。大正元年9月1日に建てられた碑である。
桜井篤忠の子孫である桜井勉が碑文の筆を執った。
桜井勉は、出石藩の儒家桜井家の嫡子として天保十四年(1843年)に生まれた。
その桜井勉の生家跡が、弘道館跡公園の向かい側にある。
桜井勉は、長じて出石藩の藩政に関与したが、廃藩置県後は諸職を歴任した。
内務省地理局長時代には、気象予報事業に携わった。日本の天気予報の創始者とも呼ばれている。
桜井は、晩年出石に帰り、郷土史家となった。桜井が執筆した「校補但馬考」は、但馬の郷土史の優れた著述として今も高く評価されているという。
出石は小さな町であるが、今の日本に大きな影響を与えた人物を複数輩出した町である。
冬は雪に閉ざされる小盆地にあるこの町が、長い年月の間に培った文化的な土壌が、偉人を生み出したものと思われる。