細川ガラシャ夫人像の視線の先、大手川ふれあい広場の東側には、大手川が流れている。
この大手川から東側は、天正八年(1580年)に細川藤孝、忠興父子が築城した宮津城があった場所である。
大手川右岸沿いには、当時の城を偲ぶよすがとするためか、城壁風の堤防が造られている。


宮津城は、城の西側を流れる大手川を天然の濠とし、北は宮津湾に面した海の城であった。
明治に入ってすぐの頃、廃城となった。
大手川にかかる大手橋は、城の大手門に繋がる木造の大手橋がかつて架かっていた場所と同じ場所に架かっている。


上に現代の大手橋と、幕末の大手橋と大手門の写真を並べた。ほぼ同じアングルから撮られた写真である。
時代の驚くべき変化を物語る写真だ。

木造の大手橋は、明治19年に石造三連アーチの立派な石橋に架け替えられた。
明治21年には、石橋の完成を記念して、橋の東詰に改造大手橋の碑が建てられた。
昭和59年、現在の大手橋に架け替えられた際に、改造大手橋の碑は橋の西詰に移動された。


明治19年から昭和59年まで約100年架かっていた旧大手橋は、山陰地方でこれ程壮麗で堅牢な橋はないと言われた。
石碑には、旧大手橋を称賛する言葉が刻まれている。
旧大手橋の石材は保存され、ここから約450メートル北西に行った、宮津市浜町の島崎公園内に、2分の1サイズで復元されている。




復元された旧大手橋の周囲には、モニュメントのように石材が埋められている。
これが、旧大手橋で使用されていた石材なのであろう。
このような立派な石橋が大手川に架かっている風景を見たかった。
大手橋から東に歩いてすぐの場所に、宮津商工会議所があるが、その前庭に甲子道の碑がある。


甲子道とは、大正13年の宮津の鉄道開通に際し、宮津駅と大手橋を結ぶために造られた駅前大通のことである。
廃城後の宮津城跡は、畑や荒れ地が広がっていて、大手橋以西が宮津の町の中心であった。
宮津駅と大手橋以西を結ぶ甲子道が出来ると、宮津城跡は急速に市街地化した。
宮津商工会議所の道路を挟んで南側に、一色稲荷神社がある。


近世の地誌によると、この地には米田屋敷という細川家の重臣屋敷があった。
細川氏の宮津城入城後も、丹後守護一色氏は、弓木城に拠って細川氏に抵抗した。
細川藤孝は、一色氏の当主五郎義定に娘を嫁がせて和議を結んだ。以後、細川氏と一色氏は丹後を分割統治した。


天正十年(1582年)の本能寺の変後、細川氏は秀吉に与したが、一色氏は明智光秀に与した。
光秀滅亡後、一色五郎義定は、細川忠興によって宮津城内の米田屋敷内で謀殺された。
義定の叔父、一色義清は、弓木城に入って一色氏の家督を継ぎ、細川氏に戦いを挑んだが、天正十年(1582年)九月に細川氏の本陣に斬り込んで敗死した。
ここに南北朝時代以来の丹後守護一色氏は滅亡した。


一色稲荷神社境内には、一色義清自刃之處と刻まれた石碑がある。
ここは、かつての宮津城の城内になる。一色氏滅亡後、その霊を鎮めるため、細川氏は城内に一色稲荷神社を建てたのであろう。
一色稲荷神社から甲子道を東に歩くとJR宮津駅がある。

JR宮津駅のある辺りは、かつて宮津城三ノ丸があった辺りである。
JR宮津駅から北西に歩く。宮津市鶴賀にある宮津武田病院前には、宮津城跡の説明板と宮津城で使われていた石材がある。


大きな石は、ここから約80メートル南にあった宮津城本丸入口鉄(くろがね)門の袖石垣の石材である。
その手前の中央に窪みのある石は、大手橋橋脚の礎石である。
その左にある波状の石柱は、この北側にあった波止場の船つなぎ石である。
宮津武田病院のあるこの辺りは、宮津城二ノ丸のあった辺りである。
私は、ここから復元された旧大手橋のある島崎公園に向かった。
島崎公園からは、宮津湾を眺めることが出来る。

内海の宮津湾は穏やかで、ほとんど波がない。
奥の山の手前に延びる緑の帯のようなものが、天橋立である。
宮津城は、宮津湾に面していて、大手川を通して宮津谷の奥にもつながる、交易にも便な場所であった。
今日一日で、播州の瀬戸内側から丹後に来て史跡巡りをし、日本海を目の前にする場所に到達した。
今日の史跡巡りに満足して帰路に就いた。