金剛寺から南あわじ市八木馬回にある真言宗の寺院、擁護山成相寺(なりあいじ)に向かった。
成相寺に向かう途中、左手に門前池という池がある。この池の東側に、足利尊氏の命により淡路守護細川氏春が建立した安国寺という寺があったという。
安国寺は、日本の水墨画の基礎を築いた画家の明兆が、少年時代の十数年を過ごした寺だという。
門前池を過ぎて東進すると、左手に成相寺の中門が見えてくる。右手を見ると、坂の上に門が建っている。大門である。
大門は、成相寺の南西側にあるが、大門の更に西側は大門池という溜池になっている。通常大門の前は参道になっている筈である。参道がいつしか溜池になったのか、それは分からぬ。
大門を潜ると、坂の下に成相寺の伽藍が見える。
成相寺の創建がいつなのかは、記録がなくて良く分かっていない。
本尊の薬師如来立像は、淡路島最古の仏像で、平安時代初期の作であるという。成相寺は、平安時代初期には開基されていたのかも知れない。
仁治四年(1243年)に、紀州根来寺との争いで淡路に流された高野山悉地院の実弘上人が成相寺の伽藍を整備し、淡路高野と呼ばれるほど繁栄したという。
成相寺中門の前には、成相川が流れ、橋がかかっている。その橋から西側の川床を覗くと大きな岩盤がある。その岩盤の中ほどが掘削されていて、水路が通っている。
成相川には竜女が棲むという伝説があった。昔、この岩盤のおかげで成相川の流れが堰き止められ、水が溢れることがあった。
伝説では、成相川に棲む龍が腹で岩盤を削り取ってこの水路が出来たという。地元ではこの岩を蛇磨岩(じゃずりいわ)と呼んでいる。
確かに、龍がお腹で削ったように蛇行した水路である。
また、橋から東側の川床を見ると、柱が嵌っていたと思われる礎石が2つ見える。
この礎石が何の礎石なのかは分からない。橋の柱が立てられていたのかも知れぬ。
橋を渡ると中門がある。中門の左右には、毘沙門天、持国天の二天像が安置されている。
暦応三年(1340年)に細川師氏が淡路守護になった。細川氏はその後174年に渡り成相寺の伽藍の復興に努めた。本堂、大門、中門、聖天堂、六角堂、大師堂、奥の院などが整備され、塔頭も複数築かれた。
室町時代に作成された「成相寺伽藍絵図」に、その壮大な伽藍が描かれている。
しかし永正十四年(1517年)に三好之長が細川氏を滅ぼすと、施主を失った成相寺は伽藍を次々と失い、最終的に本堂と大日堂を残すのみとなった。
正徳五年(1715年)に寺内村の山口多助の寄付により、中門と毘沙門天立像、持国天立像が再興された。
しかし、かつての伽藍の再興までには道遠しである。
境内には、中興の祖の実弘上人が植えたとされる樹齢数百年のイブキがある。
高さ16メートル、幹回り7メートル、東西14メートル、南北16メートルの巨木で、南あわじ市の天然記念物になっている。
この巨木は、成相寺の盛衰を長い間見守ってきたことだろう。
このイブキが、実弘上人が来てから経過した成相寺の時間を、一身に鐘めているように感じた。