桜山天満宮から智源寺の裏側にかけての丘陵は、桜の木が多いので桜山と呼ばれている。
安政三年(1856年)には、島崎の砲台築造のための土取場になった。
土が取られて平坦になった場所に、明治になって本荘神社が建てられた。
上の地図の右上にある方位の右側にある小さな四角が、前回紹介した本荘神社である。
大頂寺の東側に配水池があるが、このあたりまでが桜山である。
そこから南西に進んだ智源寺の西側辺りは、中世の山城の大久保山城跡である。
今日はその大久保山城跡を紹介する。
本荘神社の裏側から、大久保山城跡への道が始まっている。
大久保山城は、丹後守護一色氏の家臣小倉氏や、小倉氏配下の野村将監が城主だったと言われている。
以前紹介した盛林寺も、元は大久保山の辺りにあったと言われている。
本荘神社から南に歩いてすぐに、土塁のようなものがあるが、これが土塁なのかどうかは分からない。
この土塁のようなものを過ぎると、広い削平地がある。
ここからは、宮津の市街が見渡せる。
大久保山は、標高50メートルほどの丘に過ぎないので、家々の屋根は近い。
しかし、この眺めを見ると、いかにも宮津の支配者が拠った場所という気がする。
削平地を過ぎると、竹林に入る。竹林をしばらく行くと、右手に墓地に入る道がある。
墓地に入って南下すると、左手に配水池がある。ここを過ぎると、大久保山城跡の縄張に入る。
配水池を過ぎると、土橋のような道がある。
ここから更に進むと、城跡の主郭の切岸が見えてくる。切岸と言っても、然程高いものではない。
切岸の上は、曲輪になっていた。ここが本丸跡だろう。
本丸跡の南側には、一段低い曲輪がある。
主郭の曲輪の東側には、風化しているが土塁が築かれている。
一段低い曲輪に下りると、曲輪の東側が僅かに盛り上がっているのが分かる。
この曲輪の南側には、更に一段下がった曲輪がある。
土塁の東側には、帯曲輪がある。
大久保山城は、細川氏が丹後国主になった後は、廃城となったようだ。
大久保山自体が低い丘陵で、城跡にもほとんど防御機構らしいものがない。
城と言うよりは、丘陵上の屋敷跡という印象である。
細川氏が、城下町として宮津を整備する前は、この大久保山城が宮津の中心だったのではないか。
町の移り変わりは、支配者の移り変わりと密接に関連しているようだ。