八幡山城跡 後編

 曲輪の次には切岸があり、切岸の上に曲輪があるという光景が連続する。

曲輪と切岸

 曲輪群を過ぎて進んでいくと、二ノ丸跡の切岸が見えてくる。

 ここからが城の主郭である。

二ノ丸の切岸

 二ノ丸跡からは、城の北西方向を眺めることが出来る、八幡山城跡第一のビュースポットである。

二ノ丸跡

 北側を見ると、宮津湾の全貌を眺めることが出来る。

 そして、日本三景の一つ、天橋立もよく見える。

宮津

天橋立

 感動すべき景観だ。

 ここから更に進むと、石垣が見えてくる。本丸跡の北側を覆う石垣である。

本丸跡への道

石垣

 石垣は、安土桃山時代から登場した防御設備である。この石垣は、細川藤孝が城主の時に整備されたものだろう。

 本丸跡は、やや広い曲輪である。

本丸跡

 ここから宮津湾を見ようとしても、樹々が邪魔をして見ることが出来ない。

 西側の宮津谷と呼ばれる平野の一部は見ることが出来る。

本丸から西側の眺望

 本丸跡の東西南北には、張り出したように曲輪がある。

 北側の曲輪は、二ノ丸跡につながっている。

本丸東側の曲輪

 南側の曲輪の南端は、急な斜面の切岸で終わっている。

本丸南側の曲輪

南側の切岸

南側の曲輪から見た本丸の切岸

 南側は尾根で更に南の山とつながっている。南から来る敵に備えたものだろう。

本丸西側の曲輪

 八幡山城は、宮津城が築城された後は廃城になったようだ。

 ここに拠っていた細川藤孝、忠興は、織田、豊臣、徳川の時代を生き抜き、忠興の子忠利は、肥後熊本藩主となった。

 以後、細川家は明治まで熊本藩主であり続けた。

 この城が、今に続く細川家の出発の城であるように感じた。