高城山の頂上が近づいてきた。八上城跡の主郭付近に接近する。
八上城跡は、高城山の頂上付近に、本丸、二の丸、三の丸、岡田丸、右衛門丸という曲輪群を有する連郭式山城である。
頂上に近づくと、まず目に入るのが右衛門丸である。
右衛門丸には、城主の屋敷があったようだが、城主がこの高地に常駐していたわけではあるまい。あくまで籠城時に住んだ屋敷だろう。
この右衛門丸は、主郭の一番西にある。その上にあるのが三の丸である。
三の丸は、それほど広い曲輪ではない。南方の谷間に対する防御陣地だったと言われている。
三の丸の上には二の丸がある。
二の丸は、主郭の中で最も広い曲輪である。城の防御において、最も重要な役割を果たしていたと思われる。
二の丸の入口付近には、かつてあったと思われる城門の礎石が残されている。
数百年の時を経て、静かに残る礎石には、どこか趣がある。
二の丸に上がると、かなり広い空間が広がっている。
馬が走り回ることも出来そうな広さだ。実際のところは、当時はここに建物が建ち並んでいたことだろう。
この二の丸からの眺めが頗るいい。
西を望むと、眼下の三の丸の向こう側に、篠山城下の街並みや、篠山盆地が広がる。
また、二の丸から北側を望むと、先日紹介した土居の内も視野に収めることが出来る。
上の写真真ん中あたりに、小さいが土塁に囲まれた土居の内が見える。
本丸は、それほど大きな曲輪ではない。現代の一般的な民家が一軒その上にようやく建つかというほどの大きさだ。
本丸の上には、信長に滅ぼされた八上城主波多野秀治公の表忠碑が建っている。
波多野秀治は、大正天皇即位の大嘗祭にともない、史上の功臣300余人に贈位した際に、従三位を贈られている。
秀治が、永禄三年(1560年)に正親町天皇が即位の礼を上げた際に、金銭面、軍事面で援助したことが評価されたようだ。
この石碑は、大正時代に従三位贈位を記念して建てられたものだろう。
応仁の乱で東軍(細川方)についた波多野氏は、戦功を上げて、因幡国八上郡から丹波国多紀郡に移って来た。
波多野氏はその後力を蓄え、大永七年(1527年)に管領細川高国を放逐し、天文七年(1538年)には守護代内藤氏を攻略した。
守護、守護代を追い出して、実力で丹波を制圧した波多野氏は、名実ともに戦国大名となる。
丹波を制圧した波多野氏の前に、畿内の覇者三好氏が立ちはだかる。波多野氏は、永禄年間(1558~1569年)には三好軍とその家臣松永久秀軍の攻撃を何度も受けた。
その都度、八上城は敵の攻撃を跳ね返した。
その三好氏も松永久秀も、畿内に進出してきた織田信長に蹴散らされる。
畿内を制圧した信長は、山陰道攻略のため、明智光秀を丹波に派遣する。
光秀は、服従せぬ波多野秀治の立て籠もる八上城の周囲に支城を建てて包囲し、兵糧攻めにした。
天正七年(1579年)、光秀の謀略により捕らえられた波多野秀治らは、安土城に身柄を移されて処刑される。
八上城跡の本丸の周囲には、石垣が積まれている。小さく平たい石が積み重ねられていて、穴太衆の石垣とは異なる様子だ。
戦国時代の山城には、基本的に石垣は使われなかったので、この石垣は波多野氏を攻略し、新たに八上城を支配することになった明智氏か、その後に城主となった前田氏あたりが築いた石垣だろう。
今の城の縄張りも、波多野氏の時代のものがそのまま残っているかは分からない。
波多野氏のように、一国を実力で手にした戦国大名は多いが、そこから数か国を領有する戦国大名に成長するには、更に一段高い能力が必要だったようだ。
篠山盆地の西に日が傾き始めた。戦国の波多野氏の盛衰を思いながら下山した。