和貴宮神社から東に歩き、同じ宮津市宮本にあるカトリック宮津教会に赴いた。
カトリック宮津教会天主堂は、丹後地方のカトリック教会の創立者であるフランス人宣教師ルイ=ルラーブ神父により、明治29年に建てられたものである。
カトリック宮津教会の天主堂は、聖ヨハネ天主堂と呼ばれている。
長崎の大浦天主堂に匹敵する日本有数の古い天主堂で、現在もミサが行われている現役の天主堂としては、日本最古らしい。
聖ヨハネ天主堂は、毎週月水金の午後1時30分から午後4時30分の間に公開されている。
公開時間中は、内部の見学も可能のようだが、私が訪れたのは日曜日であり、公開されていなかった。
聖ヨハネ天主堂の設計は、ルイ=ルラーブ神父であるが、建築に携わったのは地元宮津の大工たちであった。
飴色に輝くアーチ状の天井や柱の木材は、丹後産のケヤキである。
床には畳が敷かれた和洋折衷の建築である。
昭和2年の北丹後地震でもびくともしなかった堅牢な建物である。
天主堂の側面に回ると、印象的なステンドグラスが嵌められている。
ステンドグラスは、ルイ=ルラーブ神父がパリから取り寄せたもので、現在ではフランスでも製作されていない技法で作られたステンドグラスなのだという。
木造桟瓦葺の、いかにも明治の洋風建築という佇まいである。
カトリック宮津教会の西側には、大手川ふれあい広場という公園がある。
この公園は、江戸時代の宮津藩医小谷仙庵(おだにせんあん)の屋敷があった場所である。
明治になって小谷家が転居した後、屋敷には旧宮津藩士大村政智が移り住んだ。
その後屋敷は大村家により管理されていたが、昭和61年に発生した火災により焼失してしまった。
屋敷の遺構として、現在は道路に面して大村邸長屋門だけが残っている。
大手川ふれあい広場の中央には、細川ガラシャ夫人像が建っている。
細川ガラシャは、明智光秀の三女で、玉子(お玉)という名であった。
天正六年(1578年)に、信長の命により細川忠興に嫁した。玉子16歳の時である。
その後忠興と共に宮津に移った玉子は、暫し平穏な日を送る。
天正十年(1582年)の本能寺の変に際し、忠興は舅の光秀に与せず、秀吉に恭順の意を示すため、玉子と離別し、玉子を味土野に3年間幽閉した。
秀吉の許しもあり、3年後忠興は玉子と復縁したが、玉子は大坂玉造の細川屋敷に移った。
玉子はそこでカトリックに改宗し、ガラシャという洗礼名が付いた。
慶長五年(1600年)の関ケ原の合戦に際しては、忠興は徳川家康率いる東軍に与した。
西軍の将石田三成は、大坂に住む東軍大名の妻子を人質に取ろうとした。
西軍の手は、細川屋敷にも及んだが、西軍の人質になるのを拒んだガラシャは、細川屋敷に火を放ち、家臣に自らを介錯させた。キリスト教では自決が許されなかったためだという。
ガラシャの壮絶な死に驚いた三成は、以後大名の人質を取るのを中止した。
関ケ原の合戦で活躍した細川忠興は、宮津から小倉に転封となり、その後忠興の嫡子忠利は熊本藩主となった。
細川ガラシャ夫人は、悲運の女性として知られている。光秀の娘であったことが、悲運の発端であった。
晩年は忠興からも冷たく扱われたという。そんなガラシャ夫人が、忠興が存分に働けるように西軍の人質になるのを拒み、壮絶な死を遂げた。
貞女とも烈女とも素直に言い難い、底知れぬ悲しさを覚える生涯である。
細川ガラシャ夫人像の背後には聖ヨハネ天主堂がある。晩年キリスト教に改宗したガラシャ夫人は、暫しの間でも、心の平安を得ることが出来ただろうか。