芦屋市業平町にある芦屋市民センターの敷地には、徳川秀忠が元和六年(1620年)に諸大名に再建工事を命じた大坂城の石垣用石材が展示されている。
この石材は、芦屋市西山町で見つかったものである。
大坂城再建工事では、豊臣家が築いた大坂城の石垣の上に、更に大規模な石垣を築いて、その上に城郭を建てた。
六甲山からは、花崗岩が豊富に採れる。神戸市灘区、芦屋、西宮にかけての六甲山東麓からは、大坂城石垣再建用の石材が多数切り出された。徳川大坂城東六甲採石場と呼ばれている。
大坂城再建工事は、主に西国大名が担当した。豊臣の城を破壊して、その上に徳川の城を築く。その作業を、豊臣恩顧の大名家にやらせたわけだ。
それぞれの石材には、工事を担当した大名が分かるように刻印が刻まれた。
例えば、芦屋市民センターにある刻印石には、薩摩藩島津家のものと思われる丸に十字の刻印が刻まれている。
また、この石材には、石材を割る時に空ける矢穴の跡がある。
花崗岩は、矢穴を空けて槌で叩くと、2つに割れるのである。矢穴を空けられて割られた石は、割石と呼ばれる。
ここから南に行った芦屋市伊勢町の芦屋市美術博物館の庭にも、刻印石が置かれている。
ここにある刻印石は、昭和62年に芦屋市呉川町の道路工事中に発見された呉川遺跡から運ばれたものである。
呉川遺跡は、石垣用石材の集積・積出港の跡だと思われる。
芦屋市立美術博物館から東に約200メートル行った、芦屋中央公園の道路を挟んで北側にある歩道に、平成5年に呉川遺跡から発掘された大坂城の刻印石や割石が展示されている。
ここには、数多くの割石が置かれている。
ここにある石には、出雲松江藩堀江家の分銅型刻印が刻まれている。
私はかつて、備前牛窓沖の前島の採石場で、同じ刻印が刻まれた刻印石を見かけたことがある。
松江藩は、広範囲に採石を行っていたようだ。
こんな風に何気なく転がっている石からも、豊臣家を滅ぼして、諸大名を動員して徳川の世を盤石にしようとした、江戸幕府の強大さを感じ取ることが出来る。