雲龍山宝光寺

 兵庫県南あわじ市志知飯山寺にある真言宗の寺院、雲龍宝光寺には、永和四年(1378年)の弘鑁(こうばん)上人銘のある錫杖があるとのことだったので訪れた。

雲龍宝光寺

 私が宝光寺を訪れた時は、既に日が傾き始めていた。境内に入って石仏などを眺めていると、境内を歩いていた寺の年配の女性が私に「今締めたところですが、開けますから」と言って、本堂の戸を開けて下さった。

仁王門

 私がお礼を述べて本堂に上がると、内陣正面に御本尊の金剛界大日如来坐像が祀られていて、その左右には真言八祖像が掲げられていた。御本尊は金色の新しい像に見えた。

 私は御本尊に向かって手を合わせ、「般若心経」を唱えた。

 するとそこに壮年の住職がやってきた。私の誦経が途切れると、住職は、「どうぞそのまま続けてください」とおっしゃった。

寺宝を表す看板

 私が誦経を終えて立ち上がると、住職が立ってこちらを見ておられた。

 住職から、「お参りですか」と声をかけられたので、「ええそうです」と答えたが、住職は私がどんな類の参拝客か測りかねているようで、そこで会話が途切れそうになった。

 私が、「このお寺は歴史が古いのですか」と尋ねると、住職は、「中世には建っていたと言われています。昔はこの地に飯山寺という6つの坊のあるお寺があって、この寺は飯山寺宝光坊という名前でした。宝光坊だけが残って今に続いています」と説明を始めた。

門前の石仏

 住職は続けて、「淡路島内に、中世に舞楽法要を行っていた寺社が7つあって、この寺もその中の1つでした。舞楽とは、雅楽のことです。千光寺や淡路一宮や二宮も、舞楽法要をしていた寺社の一つです」とおっしゃり、「中世にはお詳しいですか」と尋ねてこられた。

 私は、「いえ、それほど詳しくありません」と答えたが、住職が中世に興味を持たれた方だということがこれで分かった。

 私は今まで訪れた伊弉諾神宮、千光寺、大和大国魂神社のことを思い浮かべた。それらは、淡路を代表する寺社である。宝光寺は今はそれほど大きな寺ではないが、過去には淡路を代表する寺院として繁栄していたようだ。

仁王像

 そう言えば、宝光寺が建つこの場所の地名は、志知飯山寺という。飯山寺は地名として今も残っている。

 住職は、「昔は、飯山寺に坊が6つありましたが、5つはなくなりました。しかし今でも字名として〇〇坊という名が残っています。この辺りの人は、今でも『今日は〇〇坊に行ってくる』と言いますが、〇〇坊というのが田んぼのことなのです」と笑いながら続けた。

本堂

 私が興味を覚えて、「面白いですね。昔の地名が残っているものなんですね」と言うと、住職は我意を得た様子で、「面白いですよ。こちらを見ればそれが分かります」と言って、私を隣室の座敷に招じ入れて下さった。

 座敷には、額に入った古地図が壁に立てかけてあった。住職は古地図を指しながら、熱心に解説を始めた。

 しばらくすると、年配の女性がお茶を持ってきて下さった。私は恐縮しながら住職の話を拝聴した。

本堂上の棟瓦

 古地図は、かつての飯山寺周辺の地図であった。よく見ると、隅に徳島大学図書館の印が押されていた。

 私が、「徳島大学が所蔵していた地図なのですか」と尋ねると、住職は、「そうです。淡路は徳島藩蜂須賀家の所領でしたから。その時代の淡路の地図の大半が徳島大学にあります。この地図は、大学から譲っていただいたものです」と説明した。

本堂蟇股の彫刻

 図を見ると、確かに〇〇坊という寺院が複数描かれていた。その周辺に、住居らしきものが描かれている。

 住職は、「寺院の周囲には結界を張っていました。結界の中には住居は建てられませんでした。寺院周辺の建物は、当時の徒士と呼ばれた武士たちの家です」と続けた。

本堂の扁額

 地図の下方に、鈩田(たたらだ)という地名が書いてあった。住職は、「鈩田は製鉄集団が住んでいた場所だと思います。それからこの辺りには、衣服を制作した人が住んでいました」と、字名とそこに住んでいた人たちについての話が続いた。

 宝光寺の隣には、熊野神社という神社がある。地図にも熊野神社が書かれている。

境内の極楽堂

 住職は、「隣の熊野神社も、江戸時代までは宝光寺と一体でした。神仏習合の時代には、熊野神社阿弥陀如来の、八幡神社薬師如来の化身とされていました。明治の廃仏毀釈によって、隣の熊野神社神職が運営することになりました」と残念そうにおっしゃっていた。

 真言宗の中では、やはり神仏習合が当然の世界のようだ。

極楽堂の弘法大師像と供養塔

 寺の座敷で古地図を眺めながらこれらの話を拝聴すると、中世や近世が、ついこの間のことのように感じられてきた。

 寺院には、外の世界と異なる時間が流れているように感じた。

 最後に住職が、「済みません、つまらない話に付き合って頂いて」といって、深々と頭を下げられたので、私も頭を下げて「ありがとうございました。とても興味深かったです」とお礼を言った。

境内の石仏

 宝光寺の東側に、陸の港西淡という高速バスの乗り場がある。その東側のあたりが、弥生時代後期の集落跡のあった鈩田遺跡のあった場所である。

 さきほど住職が説明した鈩田がこのあたりになる。

鈩田遺跡のあった辺り

 また、陸の港西淡の西側には、南あわじ市立志知小学校があるが、小学校の北の溜池や畑のあたりに、ハバ古墳という古墳があったようだ。

ハバ古墳のあった辺り

 ところで、現地で鈩田遺跡やハバ古墳があった場所を探すのに役立ったのが、奈良文化財研究所が公開している「文化財総覧WebGIS」というホームページである。

 このページでは、地図上から古墳や遺跡の所在地だけでなく、国宝、重要文化財等の所在地も検索することが出来る。

 今までは遺跡の位置を探すのに苦労したものだが、このページの存在を知ってから、格段に探しやすくなった。

 史跡巡りをするには、強力な武器になるページである。

 宝光寺では、住職の貴重なお話を伺うことができた。古くからの寺社には、地域が忘れかけている地元の歴史が伝えられている。